ヴィパッサナー瞑想合宿で脱走しかけた私がたどり着いた答え【千葉ダンマ―ディッチャ体験記】

今回のコラムは、いつものOMYOGAコラムとは全くの別物です。
日本ヴィバッサナー協会の瞑想合宿の体験記を、極めて個人的に記しています。
私の人生にとって、あの10日間はスペシャルでした。
自宅から3時間ほどの距離にあって、あれほどの非日常を体験するなんて・・・。

皆さんにも、ぜひ体験してほしい!
でも、オススメした私のことは恨まないでほしいので、これを読んでからにしてほしい!笑

以下の文章はもともとブログにして皆さんにも軽く紹介しようと思っていたのですが、量が膨大になったこともありこちらにまとめて掲載してもらうこととなりました。

合宿の経験を忘れないうちにと、帰宅後ハイテンションで書きまくったものです。
読み返すとその興奮の度合いが感じられてお恥ずかしいのですが、それもまたあの10日間のスゴさを感じられる気がしたので、不適切な表現も満載かと思いますが、手直しはせずに公開したいと思います。
映画紹介も挟み込まれていたりするので、興味のあるところだけ目次で拾って読んでいただいてもいいかなと思っております。ご理解ご了承のほど宜しくお願いします。

 

CONTENTS

プロローグ はじまりは誕生日

そのメールが届いたのは、合宿スタートの9日前のこと。
「キャンセル待ちをされているコースにおいて、お席の用意ができましたのでお知らせいたします。ご参加いかがでしょうか。」
2ヶ月前に申し込みをして、キャンセル待ちになっていた私は、
喜び勇んで「参加します!」とレスをした。

エントリーをしたのは、千葉で行われるヴィパッサナー瞑想10日間コース。
日本ヴィパッサナー協会が運営する瞑想センターでの、合宿プログラムだ。

私はこれに参加したかった。
正確に言えば、やっと参加を決意した。


ヴィパッサナー合宿の存在は、数年前にヨガ仲間から聞いていた。
けれど、申し込みはしなかった。
その理由は、とにかく内容がストイック過ぎると感じたからだ。
なにがストイックかって、10日もの間、周りとコミュニケーションが禁止になる。おしゃべり禁止。
口から生まれたような人間なので、そんな状況ではんでしまう!☠️
メールやSNSはもちろん、ネット接続禁止。
無理無理無理無理。絶対無理。

そんな私の心境が変化したのは、OMYOGAのマインドフルネス講座を受けたのがきっかけだった。講師はNTTコミュニケーション科学基礎研究所の藤野正寛氏。日本のマインドフルネスを牽引している先生で、講義も抜群にわかりやすく面白く、ためになる内容だった。そのなかでヴィパッサナー瞑想合宿の話が出た。

藤野先生のプロフィールを見ても、この10日間合宿のすごみを感じられるはず。

藤野正寛

1978年、大阪生まれ奈良育ち。
神戸大学経営学部卒業後に、医療機器メーカーに7年間勤務し、経営企画管理業務に従事。海外駐在員時代に、10日間のヴィパッサナー瞑想リトリートに参加し、瞑想が身心を健康にすることを体験的に理解し、「働いている場合ではない」と退社。京都大学教育学部に編入学し、学士・修士・博士を経て、現在に至る。現在は、瞑想の実践者かつ研究者として、瞑想実践を通じてでてきた問いをもとに、認知心理学的手法やMRIなどの実験装置を用いて、瞑想の脳研究を進めている。特に、智慧を育むマインドフルネス瞑想と慈悲を育むコンパッション瞑想のメカニズムの解明に取り組むとともに、人々の身心の健康のために、それらを社会に導入する活動に取り組んでいる。

海外駐在のいわばエリートが、「働いている場合ではない」って退社ですよ笑

この講座を受けた日は、期せずして私の誕生日。
なんとなく「あ。これはいよいよ参加しろってことなんじゃないか?」と感じた。

私の瞑想事情からお伝えすると、ヨガをきっかけに瞑想やマインドフルネスについて興味を持ち、OMYOGAの瞑想のzoomプログラム365yogameditationに参加することで、毎朝6時半からの瞑想も習慣になっていた。

1年半くらいの間は、まさに365日、盆暮れ正月関係なく毎朝欠かさず参加していた。誰かと旅行したりしてもこっそりベッドを抜け出し、バルコニーで瞑想なんてこともした。

その結果、私の瞬間湯沸かし器(昭和の表現)的なおこりんぼ気質に変化が訪れた。日常に怒りを感じることが少なくなった。生きていれば不快なことも起きるには起きるけど、引きずるようなことはほぼなくなった。
物欲についても、いい感じに減少した。

なんて、幸せな変化!
瞑想って、すごい!

こうして私は瞑想の習慣化と、穏やかな日々を手に入れた。
それが当たり前になったのと同時期、去年の冬頃から瞑想やマインドフルネスに対して、ちょっぴり飽きている自分にも気が付いていた。

ひどく疲れていて寝坊した日を境に1日2日瞑想しなくても、もうへっちゃらだと感じてしまった。それがついに1週間となり・・・さらに・・・。
ヨガは2日くらいサボるだけで、身体が硬く感じたりするのだけれど、心には硬さを感じることはなかった。
穏やかな日々は続いている。

そして今年に入ってからは、せかせかと働くのもやめ、仕事するのは週に3日というのんびり生活に切り替えた。好きな友達と好きなタイミングで会う。何もない日は、二度寝も昼寝もし放題。おやつ食べ放題。

理想的な生活!のはずだった。
でもなんか微妙に違和感を感じる。


なぜだろう?
もっと休みを増やせばいい?
もっと稼げばいい?
あ、もしかして、おやつがダメ?

あれこれ仮説を立ててみて、ひとつの結論に行き着いた。
これって、
私の心の奥底に潜んだ「欲」が悪さをしているのではあるまいか?
穏やかな日々だけど、どこかで何かが足りないと思っているのではないだろうか。

ならば欲をなくせばいいのでは?
欲をなくす最終形といえば、解脱である。


ならば、ブッタがやっていたというストイックな瞑想!今こそヴィパッサナーだ!
ってのが、ことのはじまりだった。

let’sブッタ!


大激戦を勝ち抜き、キャンセル待ちで参加決定

コースの申し込みは、公式サイトから。
合宿開催日の2ヶ月前の夜10時に受付スタートする。

ご新規さんが参加できるのは10日コースのみなので、さながらチケット争奪戦だ。
10時ぴったりにサイトにアクセスしたけど、繋がりにくい状態。リロードしなおしたらすでに満席だった。
GWや年末年始の大型連休にかかる日程は、かなりの激戦らしい。
かろうじて「キャンセル待ちの審査待ち」に滑り込むことができた。

そのキャンセル待ちが正式に受理されたというメールが届いたのは、さらに1週間後のこと
私の場合はすでに瞑想を実践していたので、どんな瞑想をどれくらいやっているのかなどをメールのやり取りでがっつりヒアリングされた。ヴィパッサナーだけをやるのが基本らしく、特にエネルギーワーク、ヒーリングなどをやっている人の場合は、お断りされるらしい。
なぜ断られるのかは、実際に合宿がスタートしてから腑に落ちたのだが、それはまた別のエピソードで考察したいと思う。

ちなみにキャンセル待ちについては、何人くらいが待っていて、何番目に自分が並んでいるのかは教えてもらえない。

実際に参加した際に、周りに聞いてみたところ、私と同様にキャンセル待ちで参加できたという人が数名いた。中には合宿の2日前に連絡がきて参加したという人もいたので、待てば直前までチャンスはあると思われる)

持っていくといいもの、いらないもの

キャンセルが出て、即レスで参加を決め、同時に合宿の準備をはじめる。
必要な持ち物については、ヴィパッサナー協会からメールでリストが届く。
基本的にはそれらは全部持っていった。
とはいえその他に必要なものはあるかもしれないなと思い、合宿経験者のアドバイスをネットで調べてみる。
以下はそのまとめ。

  • ドライヤー
    協会からもらった持ち物リストには、必要なら持参しろと書かれていたけれど、現地にどうやらあるらしいという情報が。迷って一応小さなものを持っていく。
    (現地に、風量強めのドライヤーが数台あったので持参のドライヤーは使わなかった)

  • 不織布のマスク
    感染症対策に必要と書かれていたし、私は花粉症もあるので持っていく
    マスクしている参加者はほぼいなかった。けれど体調不良者が出たら必要と判断され指示が出るそうなので持っていくべき。同様に健康保険証も使わなかったけど、これも指示通り持っていくべき)

  • 長靴
    あると便利と書かれていたので、ブーツっぽいやつを持っていく
    大雨の夜が1日だけあって使ったけど、まぁなければなかったでなんとかなった気もする。週間天気予報とか見て決めればいいかな)

  • 脱ぎ履きしやすい外履き
    おなじくあると便利と書かれていたので、スリッポンタイプの靴を持っていく。
    →これは絶対持っていくべき!クロックスタイプを履いている人が多かった。少しの雨ならこれでしのげるし、サンダルでは足が汚れる草むらもあるので。ただし似ているスリッポンサンダルが多かったので、目印をつけるのをお勧めします)

  • 時計
    これもあると便利と書かれていたけど、家には時計がない・・・。家族に腕時計を借りて持っていくことにした。
    毎日使った!時間を確認したい場面がわりとある。瞑想中にちらっと見たくなることもある笑 夜中に光るやつだとなおよかったなぁ。目覚まし時計については、初日必要なら現地で貸してもらえる。数名が借りていた。私は面倒なので借りずに、皆さんのセットする目覚ましの音に便乗して起きていました。ありがたや。他力本願)

  • 耳栓
    他の方のブログ等のアドバイスをみてこれは必要だなーと思った。雑魚寝状態だろうし。
    (実際に、毎日使いました。ぐっすり眠れた夜が多かったのは、耳栓のおかげだと思う。でも雑魚寝じゃなかった! とはいえ、周りの人が寝返りを打つ音も聞こえるくらいの状況ではあるので、音に敏感な人は持っていきましょう。周りの音を気にせずに寝るのも、ある意味では修行なのだろうけど。まぁ、そこまでハードモードにしたければ、途中で使わないという選択もありかもです)

  • スマホの充電器
    帰りに友達のところに寄る予定あり。持って行く。
    10日間、電源オフにしていたのだけど、再度電源入れたら残量10%だった。持って行ってよかった)

  • ストール
    薄めの上着もあるし、ストールが肩にかかっている感じが瞑想中に気になりそうだから、持っていかないことにする。
    (持っていくべきだった! 朝晩の気温差もあったし、古くからの参加者さんは持ってきている人多かった)

 

基本的には、なるべく持ち物は少なく行こうと決めた。
余計なものを持ち込まない。
必要最低限でいい。
そこからすでに瞑想はスタートしているのだ。

などとわかったような顔で、ワクワクしながら準備をすすめる。

でも出発が近くにつれ、なんとなーく不安になってきた。
ほんとうに大丈夫なのかな、私・・・。

心配しているあの日の私に言ってあげたい。

「ぜんぜん大丈夫、じゃないよ!!」と・・・。

 

0day 本当に参加しますか?

ここから終了までの毎日を、その当時の自分に戻って綴っていこうと思います。もちろんその瞬間と同じ気持ちになることはないのだろうけど、極力思い出して書きます。
ただ、現地で聞いた話、起きた出来事が何日目だったかについては、正直すでに記憶が曖昧です・・・。
そのあたりはご勘弁を。

これ
を書いている現時点の気持ちは()で閉じて表記します。

そしてネタバレは勘弁だぜという方は、あえて読まずに参加してみてください。
私はそのパターンで参加しました。
そのことを初日からめっちゃ後悔したことだけはお伝えしておきます笑
でも知っていたら参加できなかったかも・・・。
知らぬが仏という言葉もありますから。

 

東京から3時間ほどという距離のワケ

参加が決まったから、協会からのメールが届く。

千葉の瞑想センターへアクセスについて

電車・バス利用
JR東京駅から総武線快速もしくは京葉線に乗車。千葉駅または蘇我駅で外房線に乗換え、茂原駅で下車。改札を出て左側のバスターミナルの乗り場3番から「道の駅つどいの郷むつざわ」行きの小湊鉄道バスに乗車し、「睦沢中央公民館」で下車。
バス停からセンターまで徒歩20
下記のバスで到着の場合、コース開始日にはバス停からセンターまで車での送迎があります。

徒歩20分は、もはや徒歩の距離ではないと感じる私。
我が家(東京23区内)からのルートをググると、茂原駅まで2時間ちょいかかる。
微妙に遠いなとブツブツいっていたら、家族が車で送ってくれることになった。それでも時間は3時間ほどかかり現地に到着する。
「じゃあ、ちょっくら解脱してくるねー」と、へらへらと車を降りた。

後日、瞑想センターをかまえる適切な場所として、都市部ではだめで微妙に遠い場所であることが必要であると語られた。駅前3分!とかは意識的に外しているらしい。この条件については、帰宅時になるほどと思えた。シャバのの暮らしに少しずつ戻っていくためには、いくばくかの時間が必要なのだ、と。)

受付開始の10分前くらいに現地入りした。
コースの受付は16時からスタート。

 

さよならスマホ。さよなら仕事。

17時までに来ればいいので、参加者の姿はまばら。

この時点ですでに男女別に受付開始。
申し込み用紙に再度、個人情報などを書き込む。
このコースに参加した理由や講師に伝えたいことを自由に記入する欄が最後にあった。
伝えたいことは特に考えていなかったので「ヴィパッサナーの知恵を身につけて、人生の後半戦を楽しく過ごしたいでーす」みたいなことを書く。

用紙を提出する際に、忘れ物がないかのチェックと一緒に、貴重品とスマホを預ける。それと一緒に頻繁に身につけているブレスレット(水晶)も外す。
理由は以下のことから。

次の物は持参しないでください:
書籍、雑誌などの読み物
十字架や数珠など宗教に関するもの全般
プレイヤーなどの電子機器
タバコ、アルコール類、
麻薬類

水晶のブレスレットは宗教的なものでもなんでもないのだけど、数珠に該当するみたいだった。細かい指示書には持ち込めないものとして「水晶」という文言もあった。私はそこまでガチでお守りにしているわけじゃないけど、お守り気分でつけている側面もあるので。

この施設と行われる一切のプログラムは、宗教ではない。
いかなる宗教とも関係のない立場で運営されている。

だからこそ、参加者側も完全にそのあたりはフラットにして挑むことが求められる。

私は特定の信仰を持っていないのでこの辺はスルーだけど、敬虔な信者さんとかで肌身離さず十字架や数珠などをつけている人や、礼拝の習慣を持っている人にとってはかなりハードルが高いルールだと思う。

個人的にはタバコも吸わないし、アルコールも飲み会くらいでしか飲まないので、これもスルー。
麻薬は、たぶん受付で預けるのもダメだよね笑


それよりなによりツライのは、スマホだ。
本を持ち込めなくても、スマホがあれば活字が楽しめる。情報が取れる。
それが一切できない10日間って・・・。
その間に、ソーシャルゲームのイベントもあるんだよぉぉぉぉぉ。
音楽聴いたり、YouTubeNetflixを観たりすることを日常にしている私。
iPhoneから通知されたスクリーンタイムでは1日平均11時間とかって表示されちゃうレベル。
デジタルデトックスしなきゃなぁと思いつつも、全然できない。

「では、スマホなどお預かりします」
電源を切って、手渡す時の心細さといったら・・・。
これってもはや中毒。


でも、少しだけ言わせてもらうとスマホについては娯楽に限った話ではない。
通信環境を断つというのはフリーランスの私には、仕事という意味でもかなり勇気のいる行為だ。

フリーランスでコピーライターをしているのだけれど、案件の打診は突然やってくる。
即レスして、即対応が基本。
「じゃ、のちほど夕方からオリエン可能ですか?」なんてこともざら。

会社勤めなら、この日まで休みますという情報を共有できるけれど
年に一度しかないような付き合いのクライアントもある。
わざわざ「合宿いきまーす」と連絡するような距離感ではない。

「連絡したのにレスが来ねーな、もう二度とこいつは使わん」
というような最悪の自体も起こり得る状況だ。

これがネックで、ずっと合宿の参加を決めきれなかった側面も結構ある。

でもでもでも。
よく考えてみようよ。
そんなことで二度と仕事を頼まれないような人間ってどうなのよ。
そんなことでこれっきりになるような依頼主なんて、こっちから願い下げてもよいのでは?

来るともしれない発注を、全裸正座待機で待つ必要あるのかね?

ない。

私の人生は、そんなつまらんことに左右されてはならない!( *`ω´)

今年に入って、仕事のやり方を変えたのもそれに近い理由だった。
私の生きるペースは、私が決める。

さよならスマホ。
しばしの別れだ。


何度も参加したくなる?

早めに着いた他の参加者さん数名に、おそるおそる話しかけてみる。
「はじめまして。まだおしゃべりしてもいいんですよ、ね?

どこからきたの?
普段はなにしてるの?
どんな風になりたいの?
聞きたいことは山ほどあったけど、とりあえず何回目の参加なのかを聞いてみる。
「3回目です」
「私は、4回目? かな?

まじか!
そんなに何度も来たくなる場所なのか!

「すごいですね!それだけ魅力的なのかな」と返すと
「まぁ、半分くらいかな? 一度で、もういいって帰る人もいますよ笑」と教えてくれた。
私はどっちになるのかなぁと、少しわくわくしてきた。

ちなみにこの場所では初参加者を「新しい生徒」、2回目以降の生徒を「古い生徒」と呼ぶ。
直訳っぽくてなんかいいよね。

 

起きて半畳、寝て一畳って、サイコー!

受付を済ませたが、キックオフの説明会まではまだ1時間以上ある。
とりあえず、部屋に荷物を運ぶことにした。
女子エリアにはA棟とB棟がある。

割り当てられた場所に行ってみてびっくり。
壁で部屋が区切られている!
どっかのブログでちらりと写真でみた部屋は、大きな部屋にベッドが並んでいるだけだった。
大部屋で雑魚寝じゃないんだ!

簡易ベッドに持参したカバーをかけながら、思ったよりずっと快適そうで嬉しくなっていた。ベッド脇には座布団一枚くらいの瞑想スペースがあり、まさに起きて半畳、寝て一畳というスペースなのだが、窓もあって明るく、清潔感もある。
廊下との区切りはカーテンなので音は伝わってしまうだろうけれど、他からの視線は完全に遮断されるシステム。
控えめに言っても最高!
自分だけの秘密基地が与えられたような心持ちになる。
将来おうちを建てるなんてときは、寝室こんな感じでつくっちゃおうかな♪と思うほど。

瞑想センターができた当初は、テントで泊まるっていうのもあったらしい! 私が誰かのブログで見た部屋にベッドが並んでいるだけの状態は、感染症がはやる前の宿泊施設だったことを後に知る)

 

暇つぶしという名のミッション

しかし、説明会まですでにやることがない。
敷地内を軽く散策したが、5分と経たずに終わってしまった。
野原のような場所にあるので、緑は豊か。
あちこちにたんぽぽが咲き乱れていて、綿毛が風に揺られて飛ばされたりしている。となりの小さな草はなんだろうか?
検索してみようと思って、スマホがないことに気づく。
聞こえてくるのは、風の音と鳥の声のみ。
変な声で鳴く鳥だなぁ。
検索してみようと思って、やはりスマホがないことに気づく。

ググりたい!!
調べたい欲が、まったく満たされない!

やることがなさすぎるので、四つ葉のクローバーを探すことにした。
5分でやめる。
見つからない。
というか、なぜ私は「四葉のクローバーを見つける」というミッションを自らに課してしまったのだろうか。
いかんいかん。
暇をつぶさずにはいられない自分に気づく。
何もしないということが、いかに難しいことか。
こういう小さな気づきの連続が、10日にわたって続くなら
やはりここに来た意味は大きいのではなかろうか。

よしよし!これはいいかもしれないね!
少なくともデジタルデトックスは確実にできそうだ!

 

キックオフミーティング 本当に参加しますね?

18時の軽食からスタート。
玄米入りのご飯と、野菜の浅漬けのようなものをいただく。
品数は少ないですが、あくまでも軽食ですからね。
ご飯も美味しく炊けていて、ありがたやありがたや。

この施設で提供される食事は、すべてベジタリアン仕様。
私はベジタリアン(正確にいえば魚は時々食べるのでペスカタリアン)なので、むしろこんなに喜ばしいことはない。
外食すると、肉、卵、牛乳は入ってないかなぁ・・・と確認することになるので、何を食べても大丈夫な環境は願ったり叶ったり。
しかもぜんぶ、作ってくれるんだよ!
菜食って美味しいし、楽しみだなぁ。
使った食器は自分たちで洗うのだけど、それくらいはもちろんしなきゃだよね。

 

19時から食堂でコースの説明が始まる。
お世話してくださる、みなさんの紹介なども。
ここでの生活で困ったことがあれば、コースマネージャーさんに、瞑想についての質問はヴィバッサナーの瞑想指導者(以下、先生と表記します)にすることになる。

全体説明のなかで、このコースへの参加への意思を再度問われる。
またその確認かーい。
そりゃ参加しますとも笑
参加の意思は申し込み後もメールでされている。このことの意味が、あとでよーーーーくわかる)

そして、生徒同士でのコミュニケーションを取ることがここからはっきりと禁止される。目配せやゼスチャー、会釈みたいなものも一切禁止。

「ここでは自分ひとりでいると思って、生活してください」

なるほど。

説明会が終わり、食堂を出るときに妙な気持ちになった。
私はひとりなのか。
さみしいような、身軽なような、不思議な感覚。

20時から瞑想ホールに移動して、軽く瞑想を行う。
特に座り方の指示とかはない。
座骨を立てて座るとか、あごをあげないとか、そういう姿勢の話もあるのかと思ったら合宿の最後まで一切なかった。
私はヨガと瞑想の経験があるので、いつもの通りに座って指示された感じで瞑想をさせてもらった。
いよいよ始まるのだなぁ。

 

2130分就寝。
明日の朝、4時起きということだけが心配。
目覚ましは借りなかった。
センターの鐘がなるらしいし、多分誰かの目覚ましで起きられる、はず。
とはいえ不安なので、持参した耳栓はナシで寝た。

寝返りを打つと、ベッドがきしむ。
周囲の部屋のきしみ音も聞こえてくる。
咳やくしゃみはもちろんのこと。
個室だと思って油断した。
思った以上に、音が聞こえる環境。
こっそり寝よう。

 

1day 不思議現象あらわる

1日のスケジュールと、うとうと寝からの4時起き

予想通り、4時過ぎに鳴った複数名の目覚ましの音で目が覚める。
ありがとー。

ただ、センターの鐘の音はまったく聴こえなかった・・・。
危ない危ない!
起きようと思えば、朝は弱くない方なのだけど油断してました。

よく眠れたかについては、眠れませんでした。
時間が気になってしまい、夜中に何度も目が覚め、その都度持参した懐中電灯で腕時計の針の位置を確認。
夢のなかで、目覚ましが鳴って起きるみたいなことも繰り返していたからかなり眠りは浅かったと思う。
でも、緊張していることもあるのか、起きた時点で眠気は感じない。

1日のスケジュールはこんな感じ。
宿舎の入り口にも張り出されているので、私はその都度、直前に次はなんだろうという感じで確認していました。

4:00 起床
4:30~6:30 瞑想ホールまたは自室にて瞑想 (2時間)
6:30~8:00 朝食と休憩
8:00~9:00 グループ瞑想(必ず瞑想ホールでおこなう) (1時間)
9:00~11:00 瞑想ホールまたは自室にて瞑想 (2時間)
11:00~13:00 昼食と休憩
13:00~14:30 瞑想ホールまたは自室にて瞑想 (1時間30分)
14:30~15:30 グループ瞑想(必ず瞑想ホールでおこなう) (1時間)
15:30~17:00 瞑想ホールまたは自室にて瞑想 (1時間30分)
17:00~18:00 ティータイムと休憩
18:00~19:00 グループ瞑想(必ず瞑想ホールでおこなう) (1時間)
19:00〜21:00 ホールにて講話、講話後は指導と瞑想(2時間) 
21:00~21:30 就寝

パジャマを着替えて、簡単に顔を洗ってざっくりと髪を結び、瞑想ホールへと向かう。

朝の瞑想は、いろいろ長い

瞑想はこのセンターの設立者であるS.N. ゴエンカ氏の指導のもと行われる。といっても、ゴエンカ氏はここにはおらず録音された音声が流されるシステム。すべて英語だけどそのあとに日本語訳が流れます。
(→私は英語がまるでわからないのだけど、わかる参加者さんたちに言わせるとインド訛りがすごいらしくてヒアリングめっちゃ難しいらしい)

昨晩、最後の時間帯に指示されたのとやり方で瞑想を開始。
鼻呼吸の観察。
出る息、入る息をひたすら観察する。

あたたかさとか、そよそよ感とか。
俗に言う、サマタ瞑想と呼ばれるやつ。
サマタ瞑想とは、集中瞑想とも呼ばれている。
なにか一点にひたすら集中するのだけど、ここでは鼻呼吸ということか。

(→詳しいやり方については指導者のもと学んでください。ヴィバッサナー を間違った認識を広げてはいけないので、以降もあまり書けないことをご了承ください)

やるべきことは、めちゃくちゃ簡単。
そしてそれが、めちゃくちゃ難しい。

単純すぎてすぐに別のことを考えてしまう。
気がつくと頭の中で考え事がはじまっている。
瞑想あるあるというか、みんなそんなもんだと思う。
何年も瞑想しているのに、いまだに気が散るんだよなぁ・・・。
まぁできるようになっていれば、ここには来てないわけですが。
これは瞑想を教える先生レベルであっても、程度の差こそあれ同じだと思う。
大切なのは、気が散ったことに気づいて戻ってくること。

瞑想センターでは、瞑想に入る前にゴエンカ氏による詠唱が流れる。
詠唱は瞑想の助けとして流される。
ゴエンカ氏が歌のようなものを唱えるというか歌ってくれる。お経みたいな感じ。
ヴィパッサナー合宿についてググると、怪しいとか宗教とかっていうワードが出てくる理由のひとつは、おそらくこれが1つの要因だと思われますが。

どんなものか興味のある方はこちらをご覧ください。

ヨガ界隈では、マントラとか真言のチャンティングに慣れているので、私なんかはこれが宗教儀式だとは思わないのだけれど。

でもこれが、長い!
昨日の夜も聞いたけど、今朝のやつめっちゃ長くないか?
終わる? 終わる?
終わらんのかーい!が繰り返される。

もはや瞑想の助けどころか、この日は完全にじゃまになっていた。

詠唱を聴き終えたところで、2時間の朝の瞑想タイムが終わった。
長い・・・いろいろ長かった。
これまでも1時間くらいは瞑想したことあるけど、2時間は思った以上にハードだな。

座り方とかは足が痺れたり痛くなったりしない方法をある程度心得ているので、そこは問題ない。それでもやっぱり上半身は、凝って硬くなった感じがある。
単純に、疲れたなぁという感じ。

朝ごはんと昼ごはんとスマホ

いやっほー。
ごはんの時間だ!
食堂に一番乗りする。

昨日と同じ玄米入りのご飯に加えて、おかゆも選べる。
朝ごはんっぽいねー。
お味噌汁があって、白菜の浅漬けのようなものも。
昨日の軽食に、お味噌汁が追加された感じ。

瞑想を挟んでの昼ごはんは、さらに一品追加のイメージ。
厚揚げの煮物みたいなやつがあり、たんぱく質はここで補給ということね!
古い生徒さんにはこれに加えてフルーツが出ている。
りんごと柑橘類。
いいなぁ。古い生徒さんたちは特別待遇かぁ。
(→のちに、そうではないことに気づく)

瞑想しているだけなのに、お腹はめっちゃ空く。
どんぶりにモリモリ盛り付けて、もぐもぐ食べた。
(→のちに、腹八分目にしなさいと講話で聞かされることになる)

毎食必ず梅干しとすりゴマ、お味噌、おろし生姜、
ごま油、オリーブオイル、塩、胡椒、しょうゆが出てくる。
これで味変も可能となるのだ。

朝ごはんの時の梅干しが、すごくしょっぱくてすっぱかったので、
昼は小さめのものを取ることにした。
すりゴマをご飯にふりかけのようにかける。
これが、めちゃ美味しい。
体にも良さそうだし、こんなに美味しい食べ方があるなんて感動。
家に帰ってからもやろう!

おしゃべりは禁止だけど、その分しっかりいつもよりよく噛んで
ここにいる間は、時間をかけてゆっくりいただくことにした。
ちょうど先月、食べる瞑想をしてきたのでいい機会だ。

飲み物は朝も昼も、コーヒーも紅茶もほうじ茶も選んで飲める!
これは嬉しい誤算だった。
食堂から水筒で持ち出せるのは、白湯と浄水だけだけど、家で飲んでいるのも基本的に白湯なのでこれも問題なし。

デザートがわりに、いつもはブラックで飲むコーヒーにたっぷりとお砂糖を投入。
上白糖ではなく、きび砂糖だと思われる。
このチョイスも、うれしい。

だがしかし。
コーヒーを飲んでほっとした瞬間に、ポケットに手が伸びた。
ない。
ないものを探している。
スマホだ。
自分の行動にハッとする。

「ミッドサマー」の世界へようこそ

昼ごはんのあとの休憩は長め。
11時45分には食堂を退出しなきゃいけないのだけれど、
次の瞑想は13時から。
それまでの間の暇つぶしとして、
午後もずっと座ってばかりの瞑想が続くので、庭?を散歩することにした。
と言ってもさほど広くはない。
直線距離で百メートルもないかな?

走ることは禁止されているので、歩く。
気がつくと数名同じように草むらを歩いている。
目を合わせることなく、微妙に距離を取りながら。
時々立ち止まっては、抜けるような青空を見上げたりして、
ゆっくりゆっくりどこにいくでもなく、うろうろする。
耳に届くのは、風にゆられる木々の音と、鳥の鳴き声。
あちらこちらに咲き乱れるタンポポ。
蝶があちこちを飛び回っている。
美しき世界。

なにこれ、ミッドサマーじゃんwwww

『ミッドサマー』(原題: Midsommar)は、2019年のサイコロジカルホラー映画。監督はアリ・アスター、主演はフローレンス・ピュー。アメリカの大学生グループが、留学生の故郷のスウェーデンの夏至祭へと招かれるが、のどかで魅力的に見えた村はキリスト教ではない古代北欧の異教を信仰するカルト的な共同体であることを知る。この村の夏至祭は普通の祝祭ではなく人身御供を求める儀式であり、白夜の明るさの中で、一行は村人たちによって追い詰められてゆく。ウィキより

人がこれだけいて、会釈はおろか目も合わせず、自然あふれる牧歌的で天国のような場所をひたすらうろつくとか非日常すぎる。カルト集団感が半端ないwww

こんな体験は他ではできない。
ある意味「ミッドサマー」ファンはあの世界観に似たものを、安全に経験できるならそういう価値もあるんじゃないか? とこっそり思う。

「ミッドサマー」の村との違いは、
歌わないこと、踊らないこと、笑わないこと、泣かないこと。
そして、殺されないこと・・・。

などと不遜なことを考えながら、日焼け止めも持ってきてよかったなと思った。

遠くで鐘が鳴る。
午後の瞑想がはじまる。

シャワー浴びていて、ティータイムに出遅れる

17時に瞑想が終わった頃には、かなりテンションが下がっていた。
正直もう飽きた。お腹いっぱいですよ。
気が散りまく
る。
鼻呼吸の観察も満足にできない。

瞑想の種類として、ただ呼吸を観察するって地味なんだよなぁ。

でも17時からはティータイム。
スケジュールの中でも、ひときわ異彩を放つ優雅な響き。

さくっとシャワーを浴びてから、食堂に向かうことにした。

シャワーは個室が3つある。
この3つの入り口に使える時間帯が表示されていて(あたりまえだけど瞑想の時間帯には使えない)
自分が使いたい時間に、割り振られた自分の区画番号のマグネットを貼り付けることで予約完了となる。
マグネットがついていない枠があれば、飛び込みで使用することもできる。

シャワーといっても、せいぜい海の家のそれくらいのイメージだったけど、清潔に保たれている。これも奉仕者としてボランティアで清掃してくれている皆さんのおかげ。ありがたい。

シャワー室自体に屋根はあるが、ほぼ外に設置されているので出てすぐに風に吹かれる仕様。
真冬はどうなるのかと考えただけで、凍えそうになる・・・。
ドライヤーは目の前の洗面ブースに置かれていて、ワット数も強めのやつがしっかり使えて、これも思ったよりずっと良くてありがたかった。

この洗面スペース、屋根はあるけどほぼ外、という感じだ。
春なので特に問題なかったし、むしろ外なので髪の毛があちこちに落ちていると気持ち悪いという女性コーナー特有の悩みもない。
落ちた髪はほうきで掃除もしてくれていると思われるが、直後に風に吹かれてどこかに飛んでいってくれている。

さっぱりしたところで食堂に向かう。

ふとテーブルを見ると
あるはずのフルーツがない!

正確に言えば、りんごがない!
食事はすべて一人いくつまでとか、そういう制限は一切されていない。
なのでりんごをみんなが好きなだけとってしまえば、最後の人まで回りきらないなんてことも起きうる。

そしてそれが目の前で起きている。
他の人は食べているのに、私の目の前に残っているのはりんごの芯だけ。

がっかり・・・。
シャワー浴びてる場合じゃなかった。
とほほ。

まぁ夜ごはんがあるし、まぁいいや。
とりあえずカフェイン摂りたくない時間なので、ほうじ茶だけいただく。
(→そしてこれがさらなる衝撃へとつながる・・・)

夜ごはんは・・・

ティータイム後の瞑想が終わり、待ってましたとばかりに食堂へ。
真っ暗。
そうです。
夜ごはんは、ないのです。

ティータイム!
あの果物は、夜ごはん代わりなのかよ!

ぐぁーーーーーーーーーーーっっ!
お腹すいたーーーーーーーーーーーーーー!

ガッカリすぎる。
もうほんとイヤすぎる。
帰りたい。
ごはん食べたい。

あらためて1日のスケジュールを今一度見てみると、夜ごはんなんてどこにも書かれていない。
なぜ私はそこに気がつかなかったのか。
他のみんなはそんなこと知っているご様子で、食堂前に行ったのは私だけ。
この時間は単なるトイレ休憩なのか・・・。
恥ずかしい。
恥ずかし過ぎる。

いきなりの不思議体験

思いっきり肩を落として、瞑想ホールに戻る。
瞑想開始。
もうなんかイヤだわー。
ぼんやりしながら、ゴエンカ氏の詠唱を聴く。
するとどうしたことでしょうか。

さっきまで集中が続かなかった鼻呼吸の観察がなんだかうまくできている。
それが先なのかあとなのか、記憶ははっきりしないのだけど。

そして、あれあれあれ?
首が勝手に動き始めてるぅ??
頭の左側にぞわぞわとした鳥肌のようなものがたち、そこが天高くもちあげられていく。
かと思ったら、ある一定のところでフックにかけられたように頭が固定された。

なにこれなにこれ?
よくわからないけど、めっちゃ気持ちいい!
これが噂に聞く、深い瞑想のめっちゃ気持ちいいやつじゃない?
今までも瞑想に深く入れたなぁと思うことは何回かあったけど、
首が勝手に動いて、持ち上げられたことなんてない。

首の角度はめっちゃ変。
この角度。↓

ヒカキンて、首を痛めてたよね。

でも、こんなに不自然な体勢なのに、ものすごく気持ちがいい。
気持ちよく寝ているような感じにも思えるのだけど、周りの音はとてもクリアに聞こえている。
同時に、鼻呼吸もずっと観察できている。
まったく集中が途切れない。
このまま2時間くらい平気で座ってられるような気さえする。

あっという間にゴエンカ氏の終わりの詠唱が聞こえてきた。
え? もう終わり?
やだなぁ、ここから出たくないなぁ。
出ちゃうのがもったいないなぁ。

1時間が体感として20分くらいに感じられた。
うまいこと瞑想できた気がする!

この手を使えば、1日の瞑想も体感的には倍速モードでいけるじゃん!
ラッキー!
初日にこれできるようになれば、こっちのものだ。
思ったよりはやく出口が見えちゃったんじゃない?
めっちゃ嬉しい。
うぇーい。

さっきまでのがっかりが嘘のように、静かに心の中ではしゃぎまくっていた。

靴下は、どこへ消えた? 

うきうきの瞑想を終え、短いトイレ休憩。
ついでに昼間に干した靴下を取り込もうと思い、洗濯物の物干しハンガーに目をやる。

あれ?

私の靴下がない・・・。

となりには私のハンドタオルが二枚。
間違いなくここに吊るしたんだけど・・・。

無印のショート丈ソックス(黒)

えぇぇぇー。
誰か間違えてませんかぁぁぁ!

1日目からそれは困る。
勘違いではない。
干したところに、ない。
似たような靴下を干した誰かが、持って行ったのだろう。
予備の靴下は、他に一足しか持ってきていない・・・。

こういう時はコースマネージャーさんに相談だよね。
いつ言おうか、なんて言おうか。
どうなるんだろ。
戻ってくるのかな。
あれやこれやと思考が巡る。

さっきまでウキウキだったのに・・・。

19時からは講話の時間。
ゴエンカ氏によるヴィパッサナー瞑想の学びが深くなるお話をいただく。
のだが。

なんだか気もそぞろ。
靴下くらい別にどうぞという感じなのだけれど、雨が続くと予備がないのは困るだろうなぁとか、このあとどうアナウンスされるんだろうとか、持って行っちゃった人は謝りたくても謝れないんだろうなぁとか、私も気にしないでくださいとか言えないんだろうなぁとか、修学旅行の時って、パンツにも名前書けっていわれたよねぇとか、めちゃくちゃ考えてしまう。

と、その時。
ゴエンカ氏の話のなかで、こんなエピソードが語られた。

瞑想センターに、瞑想に来ていた人の話。
帰ろうと思ったら、自分の靴が見当たらない。
「靴がないじゃないか! 誰が履いて行ったんだ!」
この人物は、たったそれだけのことで感情が揺さぶられてしまったのです。
おろかなことです。

私のことかーーい!

そしてゴエンカ氏の講話は続く。
この感情が生まれるのは、「私のもの」という認識、所有欲からである、と。
自分のものなんてものは、この世にはない、と諭される。

所有欲・・・。
まぁなんていうか、私が干した私の靴下って思っていましたけど・・・。
なくなったことに怒りは感じなかったけれど、動揺はした。
私の靴下なんてものは、この世のどこにもないということか。

そして思い出したのは先ほどのティータイムのこと。
私のりんごがない!と思った。
あれってまさに、このことだ。
わたしの(食べる権利のある)りんごがあると思っていたから、ないことにショックを受けたんだ。

でもそれは、私が勝手にそう思っていただけ。
なのに私は少しばかり腹を立てていた。

さっきの瞑想タイムで調子に乗っていた私の鼻を、ぽきーんと折られた気分。

気持ちいい瞑想って

講話が終わった直後の21時からは、質問があれば瞑想指導の先生に質問することが許されている。
靴下のことは一旦頭の隅に置いて、さっきの瞑想体験について確認してみることにした。

瞑想中に気持ちいいのはよかったけど、首が曲がっているのはよろしくないように思えたし、あんな姿は恥ずかしいので、他の人には見られたくない。
先生のまえに置かれた座布団に座り、おそるおそる切り出してみる。

「瞑想中、とても気持ちよく感じられたのですが、不思議なことに頭が勝手に動いて首が曲がって・・・」

ブンブンブン!
目の前で、先生の顔と手が横に振られる。
先生が、みなまで言うなとばかりに言葉を遮り、言い放った。

「無視!」

うまくいったと思っていた私は戸惑う。
「え? あ、瞑想自体はとても気持ちはよかっ・・・」

「無視!無視!」

何もかもが、違うらしい。
身体が動くのはもちろんのこと、気持ちいい感じもまるきりダメだ、と。

「ということは、今後同じような感覚があったときは・・・」

「無視!」

「無視?」

「無視!それこそがゴエンカ氏が言っていた、いままでの習慣!クセです! 瞑想中にはいろいろなことが出てくるけどすべて無視!」

そんな強いクセはないんですけど・・・。
無視ってどういう意味だろうと思ったけど、
それと同時に無視は無視であって、それ以下でもそれ以上でもないよなと思う。

取り付く島もない感じ。

「はい・・・」

無視するという指示だけ受け取って1日が終わる。
お腹も空いたし、今夜は眠れるだろうか・・・。
うちに帰りたい・・・。

2day 帰ろう!!

空腹からの、目覚め

スッキリ。
昨日は夜ごはん抜きとなり、めちゃくちゃお腹が空いていたのだが意外にも早く寝付くことができ、すっきりと目が覚めた。
耳栓はまだ怖くてできなかったけれど、夜に一度目が覚めたくらいで、次に気が付いたのは、他のみんなの朝支度の音。

あれ〜?
夜ごはん食べない方が、調子いいんじゃない?

実は昨日知ったのだが、古い生徒はティータイムも果物は食べられない。
つまり11時からの昼ごはん以降、固形物を口にしてはいけないのだ。
昨日ははからずとも、フルーツを食べ損ねた私は、古い生徒と同じ食事パターンとなったというわけだ。

瞑想にしっかりと取り組むには、むしろそのほうがいいということなのだろう。
私も夜からの瞑想は深く入れたし(まぁ間違いだって言われちゃったけど・・・)

よし!
これから私も、ティータイムはフルーツなしで続けてみよう!

靴下は「私の」じゃなくていい

靴下が失くなったことについては、昨晩コースマネージャーさんに相談した。
「ないと困りますよ、ね?」
「できればあると助かります・・・」
ということで、先生に相談してくださった結果、
「よかったらこれを使ってください」というメモとともに
この施設の忘れ物として保管されていたであろう靴下3足が、
私の個室ブースの入り口にそっと置かれていた。

そのうちの1足は私の手元を離れて行った、
私の(だと思っているだけで私のものなんてない)靴下によく似ていた。
ありがたくお借りすることにした。

でも、ホールの入り口には掲示板があり、連絡事項はそこに張り出されると聞いていたので
てっきり「間違えて靴下持って行ったがいます、確認してください」みたいなことが行われるのかと思ったが、そうではなかった。考えてみれば、これくらいのことは些細なことだし借りることもできたし、張り紙するほどのことではないのだろう。

(→結局、最後まで靴下について参加者に告知されることはなかった。私が「靴下探しはもういいです」とお伝えしていたからだと思わる。最終日に全然おぼえのないところに似たような靴下が残っているのを見て、これが間違われたやつだろうなぁと思った。この日、コースマネージャーさんに「見つかりましたか?」と聞かれたので、残っている靴下のことをお話しして、「これは持ち帰らないので、今後困っている人がいたら貸し出してあげてください」とお伝えした。これから参加する予定で靴下忘れた時は、よかったら使ってくださいね。「私の」じゃないけど笑)

5つの戒律。生き物を殺さない。嘘をつかない。

この合宿中は、絶対に守らなければいけない5つのルールがある。

基本の5つの戒律(シーラ)
1.生き物を殺さない。
2.盗みを働かない。
3.一切の性行為を行わない。
4.嘘をつかない。
5.酒・麻薬の類をとらない。

このルールはヴィパッサナーの道を極めるためには、守るべき戒律とされている。
なので、10日間は絶対に厳守なのだ。

1番目の生き物を殺さないルールに基づいて、食事も菜食となっている。
私はてっきりヴィーガンメニューだと思っていたので、牛乳とバターがあったことには驚いたのだけど、「殺さない」というところに忠実であるなら乳製品はセーフということか。
(→とはいえ、乳製品は食事には使われておらず二回だけデザートに牛乳が使用されていたが「乳・小麦使用」としっかり表示されていたので、ヴィーガンの人もその点は安心して参加することができます)

ただ、このルール。
夏はかなり厳しいのではないかと思った。
生き物、つまり蚊も殺してはいけないことになる。
私は蚊がものすごく苦手で、アレルギー的に反応も大きく出るので夏の参加は絶望的だなと思った。

宿舎に虫を捉えるアミと、ペットボトルを細工したような捕獲器が用意されていた。
幸いそれらが活躍することはなかったけれど、
このルールって、ゴ●ブリにも適応されるんだよね・・・。
部屋で見つけちゃったら・・・・。
考えたくない事態だなと・・・。

ヴィパッサナー を極める道は、厳しい!

2番目の戒律である盗みは、たぶんみんな平気だと思われる。
貴重品は最初に預けちゃってるし。
靴下がなくなるような、間違いで消えてしまうことはあるだろうけれど、このルールがあるとむしろ安心も増すように思えた。
なんの罰則規定もないけど、不思議とホッとする。

3番目の性行為も問題なし。10日間だしね。
男女の生活スペースは完全に別れているし、同性であっても性的でない単純な接触も許されていない。
うっかりぶつかったりしないように、注意しているくらい。

5番目の酒と麻薬も、持ち込むこと自体がNGなので、誘惑されることもない。

意外にひっかかるのは4番目の、嘘をつかない、だと感じた。
別に嘘つき人間というわけではないけれど、突き詰めて考えてみると、ついごまかしてしまうことってある。
大げさに伝えたり、わかっているような顔をしたり。

ここでは話をすることがほぼないけれど、先生には小さな嘘をつきそうになることがある。
「できていますか?」「わかりますか?」「大丈夫ですか?」
思わず「はい」と。

自分に対してもそうだ。
そもそももう帰りたいと思っているのに、帰らないのも自分に嘘をついているということなんじゃないか?
などという詭弁を使いたくなるくらい、もう帰りたい気持ちでいっぱい・・・。

「エクソシスト」になる

まだ合宿ははじまったばかり。
亀のスピードで流れていく時間。
この日もやっと夜に行われる、最後のグループ瞑想タイムにたどり着いた。

つらいのは、振り返れば、朝からこれまで満足な瞑想ができているとは思えないせいもある。
っていうか、何時間も鼻から出ていく息を観察し続けるだけで他のこと考えないでいられるなんて、逆にどうかしてるよね。
などと思いながら、これが終われば眠れるのだと思って観念して座る。

あ。
昨日とおなじやつがやってきた。
首がぐるりと回り出している。
が、今日のは昨晩と一味違う。
固定されることなくそのまま右回転し続けている。
無視しろと言われたので、無視していたのだけれど
無視しているから身体は持っていかれ放題。

ぐるりぐるりぐるり。
何かで巻き取られているように、じわじわとねじれが強くなっていく。
ぎゃーーーー!
180度、後ろまで首がまわっちゃうーーーー!

「エクソシスト」じゃん!!

『エクソシスト』(The Exorcist)は、1973年のアメリカ合衆国のホラー映画。
監督はウィリアム・フリードキン、 少女に憑依した悪魔と、自らの過ちに苦悩する神父の戦いを描いたオカルト映画の代表作であり、その後さまざまな派生作品が制作された。

無視と言われたけど、さすがにもうダメだと思って元の位置に戻そうとするも身体はいうことを聞かず。
さらに首が昨日と同じように上にも引き上げられ始め、目線だけは左上の空中から外せない状態で目が開いてしまう。

怖い!怖い!
いやもう、この場所呪われてんじゃないの?

え? むしろゴエンカ氏がひっぱってんじゃないの⁉︎
ゴエンカ氏って、亡くなってる?
宗教はダメなんていうから、お化けでも悪魔でも立ち入り放題なんじゃないの⁉︎
たすけてぇぇぇぇぇ!

完全にパニック。
心の中でギャーギャー叫びまくっていたら(もう少し続いていたら声に出して叫んでいたかも)
ゴエンカ氏の詠唱が流れ始めて最後のところでふっと元に戻った。

とはいえ、動悸は治らない。
やばいところに来てしまった。
このままでは気が変になるかもしれない。
まだ9日も残っているなんて、無理すぎる。

ぐったりした状態でそこから2時間の瞑想タイムと講話タイムをやり過ごした。

まぜるな危険

もちろん先生に相談した。
無視したら余計にひどいことになったじゃないか。

「先生!」

「無視!」

「いや、無視してたんですけど」

「無視!」

「えぇ・・・」

「あなた、今まで他の瞑想してたでしょ?」

あっ・・・。
すっかり忘れていたのだが、心当たりがある。

あれこれ瞑想に興味を持ち、あれこれ調べていた時期がある。
その中で、ある瞑想法で瞑想をした人が仙骨のあたりから電気のようなものが走り、それが感覚だけじゃなく、実際に仙骨があるあたりのお尻を火傷したという話だった。

なにそれ、めっちゃ面白い!
私もお尻体験をしてみたくて、そっち系の瞑想をしているワークショップに参加した。

結論からするとお尻は火傷しなかった。
むしろ参加者が「身体が勝手に動き出す」と言いながら、上半身を揺らすのがどうにも信じられずひいてしまったのだ。
それって、絶対に自分で動かしにいってるじゃん!笑

と思ったのに、まさに今の私がそれじゃないか。
疑ってごめん。
ほんとに動くんだね。

私のエクソシスト体験は、ヴィパッサナー瞑想の先生にとっては勘違い生徒のあるある現象なのだろうなと思った。恥ずかしい・・・。

ゴエンカ氏が、絶対に他の瞑想方法とまぜてはいけないと言った理由がはっきりわかった。
混ぜるな危険の、危険を味わった。
混ぜたつもりじゃなかったけど。

だから、事前に他の瞑想や麻薬の使用歴がないかを、何度も確認するんじゃないかとも思った。
瞑想していると、そのときの経験に引き戻されることもあるのではないか。
バッドトリップでもすれば、それは確かに危険なことだろう。

「・・・無視、ですよね」

大きくため息をついた私に、先生はこう尋ねた。
「頑張れる?   大丈夫」

「・・・」

「頑張りましょうか」

「はい・・・」

大丈夫なのかな。
頑張りますとも言わなかったのは、嘘をついてはいけない戒律を守らなきゃと思ったから。

「はい」は、何に対しての「はい」なのか不明・・・。

とぼとぼと部屋に戻り、ベッドの上ではたと思った。

帰ろう。
もう帰ろう。
帰った方がいい。

このままでは頭が変になる。
一周回って、涙も出ない。

はじめにこの空間に入った時は、起きて半畳、寝て一畳でいいなーなんて言っていたくせに、この狭さに気が触れそうになっていることに気がついた。
刑務所じゃん! 独房じゃん!
ぎゃーーーーーーーっと大きな声で叫び出しそう。
ていうか、もう叫んじゃうぞ!

いや、それはともかく、とにかく帰ろう。
なんて言って帰ろうか。
実は感染症にかかっています、って熱計ればわかるし、みんなにも迷惑だよな。
親戚に不幸がありま、せんよね。
親知らずが痛い? これならわかるまい。

本気で考えた。
大人として正しくここを脱出する方法を。
わかってくれる人に連絡して相談したい。
帰っていいよねって確認したい。
あぁ、でもスマホない。

こっそり抜け出すにも、財布とスマホも預けちゃってるし。

考えまくっているわたしの行く手を阻んだのは
戒律「嘘をつかない」だった。

ここに入るまで、何度も本当に参加しますか?という意思確認をされた。
こんなに何度も聞くの?というくらい聞かれた。
その意味が今わかった。
あんなに確認して自らやると言ったのに、という状態が作り出されている。
見事なくらい抜け出しにくくなっている。
自ら参加したこのゲームでは嘘をつくことは許されない。

吐きそうなくらい脱出方法のあらゆる手段を考えて、
エネルギーが切れて寝落ちした。

3day 帰るも地獄、残るも地獄

渇望してはならない

あまりの帰りたさに、気が触れるかと思うほどの夜も、よく寝たら多少気持ちが落ち着いた。
睡眠ってすごい。
脱出のためのあらゆる作戦も、決め手に欠ける。

というか、こんなにすでに嫌な思いをしているのに
ここで帰ったら、嫌な思いしか残らないと思うとさらに恐ろしい。
このまま残っても、いいことがある保証はどこにもないけれど・・・。

半分諦めの境地で、瞑想を続ける。

瞑想のやり方としては、鼻呼吸の様子を観察することから少し進んで
範囲を狭くして、鼻の下(ちょび髭が生える部分)にだけ集中せよと指示される。

地味・・・。

ずっと同じ姿勢なので肩も凝ってきた。

昨日の気持ちよかった倍速瞑想をやりたいけれど、
まぜるな危険と言われている。
ゴエンカ氏のやり方を守るように、守らない人は失敗するとも言われている。

ヴィパッサナーを体験しにきて、こんなにつらいのに、
いうことを聞かなかったせいで、その真価がわからないというのだけは避けたい。
そんなことになったら、泣きっ面に蜂だ。

3日目にして瞑想にも、ここにいるのも飽き飽きしているのだけれど、
皮肉なことに、もっとすごい境地に達したいという欲の深さが離脱を押しとどめてくれている。

渇望するな。
渇望するな。
渇望するな。

講話で繰り返し言われているけれど、渇望しなきゃ帰っちゃうぞ!

諦め半分と渇望半分。

ヨガ、ストレッチ、走るのも禁止

瞑想センター内での生活で禁止されているのが、運動だ。
ヨガなんてむしろ良さそうなものだけど、禁止。

これも地味にキツい。
ここ10年くらいを振り返って、ヨガをまったくしない10日間というのははじめてのこと。
ハマりまくっていたピークは毎日1時間以上やっていたのが、最近では週に5日ほどになってしまっているが、それでも10日アーサナなしはちょっと不安になる。

不安になるという時点で、それが習慣になっているのがわかるのと同時に、どこか依存的になっているのだろうという気もする。
ゴエンカ氏の考えでは、習慣のすべてを取り除くことが必要とされているようだったので、心身に良いか悪いかではなく、ヨガも禁止なのかなぁ。

とはいえ、肩がこれば背伸びくらいはしたくなるし、肩くらいはまわしたくなる。体を伸ばす程度はセーフだと聞いたので「それってストレッチじゃね?」と思いつつも、腕を回したりはしている。
(→終わってから周りの人にきいたら、アキレス腱とか伸ばしてたって言う人たくさんいた笑 ヨガを毎日していると言っていた人も、このルールはちょっとキツかったと言っていた)

適度にからだを動かしたほうが痛みや緊張はほぐれるけど、むしろその痛みや緊張を瞑想で観察しなさいということなのだろうなと理解した。

寝床の敷布団もその下のすのこの凸凹がわかるほどの薄さなのだが、腰痛持ちが泣きそうな仕様もまた、同じ理由からなのではないかと思った。

妖精さんを探す

ひま。
お昼を食べて、次の瞑想までの1時間ちょっと。
やることがない。

昼寝も禁止されている。
疲れても横になるのは、5分以内にしなさいと言われている。
寝過ごしたら瞑想に参加できなくなるからだ。
それ以上に、個人的には昼寝をして夜眠れなくなったらと思うと怖くて昼寝などできない。

で、ひまを持て余した私はタンポポの花の枚数を数えてみようかと思ったが、なにもそんなイライラすることをしなくてもいい気がしてやめる。

むしろ、ここまで非日常的な天国のような空間で瞑想にどっぷりと浸かっているのだから、うっかり妖精が見えるかもしれないと思い、妖精を探してみることにした。
エクソシスト現象も起きていることだし。

アリエッティみたいなやつ、いませんか?

『借りぐらしのアリエッティ』は、スタジオジブリ制作の日本のアニメーション映画。監督は本作が初監督作品となる米林宏昌が務める。 メアリー・ノートンの著書『床下の小人たち』を原作として、翻案・脚色された作品であり、人間の屋敷で物を借りながら隠れ暮らす小人の一家や、小人の少女アリエッティと人間の少年翔の交流を描く。

そんな私の目の前に妖精が!
驚く私に「小さな頃、一緒に遊んだの思い出してくれたの?」と!
そうだ!
なんで忘れてしまったんだろう!
幼い私に、妖精さんたちが話しかけてくれていたことを!

なーんてことは起きるわけもなく。
妖精どころかまっくろくろすけすら、出てこない。

てゆーか、幼い頃に、妖精が見えた経験もないしな・・・。

この遊びは1分足らずでやめた。
逆に見えたら、それはそれでいよいよアレだよな・・・。

かーーーん。
午後の瞑想タイムを告げる、鐘が鳴る。
「妖精を見つけました」って先生に言ったら「無視!」って言われるだろうな笑

悲しくないのに、流れる涙

夕方の瞑想でそれは起きた。
考えてみれば、1日目の気持ちいい瞑想も、2日目のエクソシストも、
すべてこの18時からの1時間の瞑想タイムで起きている。

またもや頭が勝手に動いて、首は斜めのままで固定された。
ゴエンカ氏の詠唱がながれている最中に、
ツツーーーっと目から液体が。
特に悲しいのでも、悔しいのでもなく、感情はゼロなのにダラダラと涙が止まらなくなる。

一言で言えば、よくわからないけど泣いている状態。

それだけが終わって、講和前のトイレ休憩では個室内でドバッとさらなる涙がでて
声を押し殺しながら泣いた。

うっうっう・・・。

それが終わると、スン。

なんだかまたよくわからない現象が起きた気がするけど、先生に報告するのはやめた。
また「無視!」って言われて終わるのが目に見えている。

一番つらいのは2日目と●日目

夜の講話はいつもこんな感じではじまる。
「●日目が終了しました」
このカウントがなければ、今日がいつなのかもわからなくなってしまいそうだった。
ちなみに、3日目にしてすでに曜日感覚は完全に消失した。

無人島で朝起きるたびに、洞窟の壁に「正」の字を書く気持ちがわかる。

もう1つの目安があった。
食堂のテーブルは各自座る場所が決められていて、その上部に体温を記入する紙が貼り付けられている。
毎朝ここに体温を記入するのだが、0日からはじまって10日までの空欄があり、これを埋めていくのが下界へ戻れるカウントダウンのようだった。

昨日の夜は気が変になりそうなくらいで、脱出を企てたりもしたのだが、なんだかんだ3日目の夜の講話までたどり着いたというわけだ。

で、この日のゴエンカ氏は話の中で「2日目にここを去る人が多い」と語った。

私の発作ともいえるほどの苦しさは、ヴィパッサナー瞑想合宿あるあるだったのだ。
あるあるをそのままやっている私。恥ずかしい・・・。

それと同時に、ゴエンカ氏は2日目をよく耐えたともいってくれた。
本当だよ!
本当に私は偉かった!

そして、次の山は6日目だと言われた。

げー。
またあんな状態になるのかと考えただけで気が重い・・・。
あぁ・・・帰りたい。
爆発的な帰りたい気持ちは、多少沈静化したものの基本的に帰りたいことに変わりはない。

心の大手術がはじまります

「明日、4日目からはヴィパッサナー瞑想がはじまります」
と言われた。
ここまでの3日間は、ヴィパッサナー瞑想のための準備だったとのこと。

まぁそうだよな。
サマタ瞑想だもんな・・・。
でも、そんなこともう半分どうでも良くなっている。

「明日から行われるのは、心の大手術です」

いやいやいや。もうすでに私の心は瀕死。
大手術したら、●ぬ。
怖すぎる。

今日はエクソシスト現象は起きなかったけれど、
相変わらず無視しているのに涙が出たり、すでに大騒ぎだ。

そもそも「なんか楽しそう」程度の好奇心で参加したのが間違えだった。
心もそこそこ健康だと思われ、人生を大きく変えたいほどの不満もない。
解脱しちゃうぞーとか言ってたけど、本当に解脱しちゃったらそれはそれで困る。

転んで擦り傷の薬をもらいに病院に行ったのに、即入院で開腹手術をされそうになっているかのような状態。

でも、
「大手術で、心の汚濁を取り除くのです」と言われると
やる価値があるような微量のわくわくもある。

擦り傷だろうが虫歯だろうが、きっかけはなんでもいい。
腹の奥底にあるという「汚濁」を取り除いたらどんな私になるのかしらという好奇心。

それにつられて、今日も脱出はあきらめて寝ることにした。

4day ヴィパッサナー瞑想スタート

いよいよヴィパッサナー瞑想です

4日目からはじまると聞いて、おいおい、まだだったのかよと思う反面
新たな変化が加わるというのはうれしい。

朝の食事が終わって食堂を出たら
「本日はヴィパッサナー瞑想の日です」と書かれたいつもと少し違うスケジュール表が貼り出されていた。
任意参加の瞑想タイム(自室で瞑想してもOK)も、必ず瞑想ホールに行かなければいけないグループ瞑想タイムとなっている・・・。

しんどい・・・。

3日まではとにかく鼻からの息が出入りする様子と、それが引き起こす感覚(冷たい、くすぐったい、かゆいなど)を観察していた。
アーナーパーナ瞑想(呼吸の瞑想)というやつだ。
これは大きなカテゴリーで言えば、サマタ瞑想と呼ばれるジャンル。

で、ヴィパッサナーだが。

このセンターを運営している日本ヴィパッサナー協会のサイトによれば、以下の通り。

ヴィパッサナー瞑想とは何ですか?
「ものごとをありのままに見る」という意味のヴィパッサナーは、インドの最も古い瞑想法のひとつです。この瞑想法は2500年以上も昔、インドで、人間すべてに共通する病のための普遍的な治療法、すなわち「生きる技」として指導されました。

日本ヴィパッサナー協会

わかんないよね笑
ウィキで調べてみると

ヴィパッサナー瞑想(ヴィパッサナーめいそう、: vipassanā-bhāvanā)は、ナーマ(こころのはたらき、漢訳: 名〔みょう〕)とルーパ(物質、漢訳: 色〔しき〕)を観察することによって、仏教において真理とされる無常無我を洞察する瞑想バーヴァナー)である。

Wikipedia

やっぱ、わかんないよね笑

このカンタンにわかんない感じこそが、ヴィパッサナー瞑想なのかな・・・。

数年前からマインドフルネスや瞑想に興味を持ち、いろいろなものを試したり、本を読んだりしたけれど、ヴィパッサナー瞑想についてはこの「わかんない」がずっとあった。

坐禅も体験しているけれど、これもヴィパッサナーを源流としているものではあるものの、ヴィパッサナー瞑想とイコールではない。このままちょこちょこ聞きかじっても、畳のうえの水練に過ぎないと感じたからこそこの合宿に参加したという側面もある。

具体的には(→これもヴィパッサナーの正式な指導者のもとおこなって欲しいので、簡単にだけ書くけど)4日目からは、目を瞑って鼻の下に意識を向けていたのと同じことを、頭の先から足の先まで、足の先から頭の先まで、繰り返し意識を向けて観察していくようにと指導された。

ただひたすら。
ただひたすら。
ただひたすら。
観察。

痛みやこわばりがあるところも、イヤだとか、無くなれとか、悪い、って思うのはNG。
ただ「痛み」「しびれ」「硬さ」そんなふうに感覚を観ていくだけにとどめる。

同様に、気持ちいい、良い、もNG。
私が1日目に気持ちよくなったのを先生が無視しろと言ったのも、こういうこと。
考えてみれば、瞑想ってそういうものだったよな・・・。

何はともあれ、新しい練習。
これまでよりは少し動きがあるので私としてはサマタ瞑想よりこの手法のほうが好き。
もちろん瞑想中は「好き」もNGだけど笑

というわけで、ヴィパッサナー瞑想とは
4日目の私の理解としては
身体に感じる感覚(イメージではなく物理的なこと)に意識を向け、
感覚を感じるにとどめる(思考しない)瞑想、
ということかな、と。

手のひらが、見つからない

ない。
手がない。

ゴエンカ氏から、
からだの一部に「空白部分」もしくは「霧がかかったような部分」が現れた場合について指導される。

なんだそりゃと思うかもしれないが、これは不思議現象でもなんでもない。
おそらく参加者全員に起きていることだろうと思う。
目を瞑って、頭の先から足の先まで、主にこの段階では皮膚感覚を追いかけていくのだけれど、それらが感じられない場所が出てくる。
しびれてるとかってことではなく。

考えてみれば、日常的にわれわれは感覚を感じない現象を体験している。

例えば、めがねをおでこに乗っけて「めがねめがね」と探しているあれ。
やったことある人は、他人に指摘されるまでめがねがおでこに触れているのに何も感じていないことになっている。
あれだけの大きさとある程度の重さがあるにも関わらずだ。

指輪もそうだよね。
最初は金属の触れる冷たさや重さを感じるけど、1日も経てばつけているかどうかを忘れてしまう。

また目を瞑った状態で、腕を水平まであげるよう指示されても、結構な確率で腕が上がり過ぎていたり、下がり過ぎていたりする。
ヨガをしている人はわかるだろうけれど、それくらい私たちの身体感覚というのはふわっとしている。

ヴィパッサナー瞑想の最中、頭の上から順番にその皮膚の感覚を観察していくわけだが、肩の位置がどこかわからなくなったり、腰の皮膚の感覚がなにもないように思える。
これが「空白」「霧がかかったような」部分。

実際にこりゃひどいなと思ったのは、足の上に乗せている手のひらが、上を向いているのか下を向いているのかわからなくなったとき。
もちろんピクリとでもからだを動かせば分かるけれど、瞑想中に動かすのはNG。
私の手はどうなってるんだ?と思ったけれど、この「思った」もNG。

この場合、しばらく「空白」「霧がかかっている」部分を観察して、それでもわからなかったら感じることに固執しないで、次の部位の観察へと移動するよう指導される。

私は『GANTZ』の転送シーンみたいな感覚で観察をしていた。
レーザーを当てていくような。
これをイメージしてしまうとまた「違う」になってしまう気もするので、非常に難しいのだけれど。

『GANTZ』ガンツは、同名漫画『GANTZ』を原作とする2011年公開の日本のSFアクション映画。

ひゃくてん取って、うちにかえりたいよ・・・。

鈍感力より、強力な力

とにもかくにも、ヴィパッサナーをやって、自分はからだを日常的に置いてけぼりにしているんだなぁと感じた。

その一方ですべてが敏感ですべてを感じていては、現代社会では精神が持たないのだろうとも思った。

満員電車で全方位のからだ感覚があったら・・・。
となりのおじさんの鼻息とか、首筋にしっかり感じちゃうからな・・・。
それはしんどい・・・。

ある種鈍感になることで、生活しやすくしているように思う。
一時期「鈍感力」というワードが流行ったけれど、まさにそれは生きるために現代人の知恵だと思う。

ただ感覚は正面から受け止めないなどして鈍くできたとしても、実は心の奥底は傷ついたりストレスを感じたりしているため、ある一定のラインを超えると爆発したりする。

だからヴィパッサナー瞑想をゴエンカ氏はオススメしているのだろう。
ヴィパッサナーの達人ともなれば、感覚を真正面から受け止める。

満員電車のおじさんの例でいうならば、
首筋に生暖かさを感じながらも「キモい」というところまで進まずに、「生暖かい」だけを感じるにとどめて、終了となる。
嫌悪は生まれず、よってストレスも生まれないというわけだ。

強い!!笑

ヴィパッサナーは、ライフハックとして最強ツールではなかろうか。
まぁその達人になるまでが、大変なんだけどさ。
最強の武器はそう、やすやすとは手に入らないということか。

動いちゃダメ! 強い決意の瞑想

4日目からのグループ瞑想(1時間)では、アディッターナ(強い決意の瞑想)にしましょうと言われる。

何を決意するかというと、一切からだを動かないこと。
目も開けちゃいけないし、体も動かしちゃいけません。

でもこれ、ふだんちょっと瞑想をしている人ならそんなに大変じゃないと思われる。
私はこの強い決意を伝えられたことについては、割と平気だった。
最初にハードルを上げた体勢にしなければいいといいわけだし。

たとえば手。
ヨガの瞑想ではポピュラーなチン・ムドラ―では、長時間耐えられないと判断。
やったことがある人はわかると思うけれど、油断すると、親指と人差し指が離れがち。

私は禅の法界定印(ほっかいじょういん)を結んでいた
私は左手を上にしていたけど、インドでは右手が上になるなど、宗派や国によって違いあり。

足も、完全なるあぐらは間違いなく股関節が逝ってしまうので、ゆるっとした合わせ方で。
膝の下に毛布などを入れて高さをつけるとわりと快適。

ちなみに、4日目あたりから参加者さんのなかで座椅子やふつうの椅子に座っている人がちらほら現れ始めた。たぶん足や腰が痛すぎるとか、そういう相談をした人たちが、それらのグッズを与えられたのではないかと思われる。

瞑想は、体を痛めつけることが目的ではないから。
なによりしっかり座っていられることが優先ということかなと。

ある日の質問タイムの時に、他の参加者さんの質問が聞こえてきた。
「足が痛くてどうしようもないときは、動いてもいいでしょうか・・・」

これについての回答はYESだった。
ギリギリまで頑張って、それでもダメなら仕方ないよね、というような答えでした。

強い決意を破っても、ひどい目に合わせられたりはしないのでご安心を笑

5day なんのために瞑想をするのですか?

パンはデザート

5日目の朝。
食堂で5日目の欄に体温を書き込んで、心の中でガッツポーズ。
半分まできたぞ!!

あれ?
でも今日まだ1日はじまったばかりで、5、6、7、8、9、10・・・と指を折ってみて6日もあるじゃん!ってなる。

もうやだ。
帰りたい帰りたい。
毎日帰りたいじゃん。
なにこれ。

でも、今さらもうあとにはひけないところまで来た。
ような気もする・・・。
こんなに我慢するなら、2日目に帰った方がよかったのではないだろうか・・・。

あーやだやだ。
朝ごはん食べよっと・・・。

この日初めて、パンが出た。(→記憶が曖昧。6日目だったかも^^;)
全粒粉と思われる茶色のパンで、バターとイチゴジャムも用意されている。

これはもう、パンというより位置付けはデザート。
半分まで頑張ったご褒美だろうか。
それとも下界に降りるために、少しずつスイーツ要素にも慣らしておかないと最寄り駅に着くなりパフェどか喰いとかを防ぐための配慮なのか。
(→のちにそういう計画性があるわけではない、と判明笑)

なんにせよ、パンコーナーだけがテーブルの上で輝いていたように見えた。

だがしかし。
ここまでストイックな環境におかれているのだから、いっそのことグルテンフリーも10日間やっちまおうかという気持ちになってきた。
我ながら、謎のストイックさが顔をのぞかせた瞬間である。

私はできればヴィーガン的に暮らせるといいなぁという思いもあり、乳製品はなるべく取らないようにしている。なのでバターも積極的には取りたくはない。

よし!決めた!
食べないぞ!
いつも通り、ごはんを食べることに。

ふと他の人の席に目を向けると、
親の仇かってほどのバターとジャムたっぷりのパンが並んでいた。

その気持ち、わかるよぉぉぉぉ笑
でもここはぐっとこらえる。
(→後日、他の参加者さんから、このパンがめっちゃ嬉しかったという声を多数聞いた。ちなみに10日間で3回ほど、同じ種類のパンが出てきました。今になって食べたくなってます)

コミュニケーションなしでも、発生するもの

コミュニケーション禁止。
一人の世界だと思え。
そんな非日常的な団体生活も、5日も経てば不思議とリズムが生まれてくる。

ここにいるのは同じ世界観をよしとしているメンバーだ。
道徳律を守り、外も内も平和なる世界を願っている(たぶん)
となると何が起きても、そこに悪気はないだろうと思えてくる。

たとえば、荷物がぶつかっても
「ごめんなさい」はおろか、頭を下げるのも許されない。
厳密にいえば、つい頭は下がっちゃったりするのだけれど
そこに「無視」も「許して」も「許す」も発生しない。

でも、それでいいのだ。
悪い人はいないだろうと思っているので、ここで起きるすべてはアクシデント。
わざとじゃないし、なんからごめんなさいってきっと思っているだろうなと互いに思える。(たぶん)

よく考えたら、いつもの社会でも私たちは起きる事象に勝手に解釈を加えてしまっている。
荷物がぶつかった時点で、わざとではないか、などと勘ぐる。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
考えたところで、ぶつかった事実は変わらないのに、だ。
心がざわつく。
ストレスに感じる。

これってヴィパッサナーの観察だけして、意味を加えるなって話と同じだよね?

話が脱線したけれど。
そういう前提で個々の生活リズムも生まれてくるので、
洗濯物を洗うタイミングなども、混まない時間帯などを自然にみんながいい感じに選んでいくことになる。

自然発生的な譲り合い。
なんとなくだけど、無理な気遣いも取り合いもないように感じる。

朝の洗面所にもなんとなーく秩序と連帯感が生まれ、
時間ギリギリに滑り込む私と顔を合わせるメンツも、固定化されてきている。4時からシャワーを浴びている人の気配もうっすらあったのだけど、そっちチームもまた同じような顔ぶれだったのだろう。

おしゃべり星人の私としては、周囲と話をしたい気持ちはまだあるけれど、でもこのスタイルも悪くないのかもしれないと思うようになった。

予想外に、このスタイルは気楽だった。
思った以上に、私も他人に気を使っていて、それはやっぱりストレスなのかもしれない。

趣味や学びのワークショップなどでは、途中で感想や気持ちをシェアするという時間がとられることが多いが、それをまったくしないというのも悪くない気がしてきた。
シェアすることで気づきや学びがあるとか言うけど、外側から突かれる気づきなんていらんかも、とか。

コミュニケーションが苦手な人なら、なおのことだろう。
そういう人向けの、コミュニケーション完全禁止のシェアハウスとか、逆にありなんじゃないか?

なんのために、瞑想をするの?

夜の瞑想を終え、先生に質問した。
実はこの日の質問を、帰宅後(記事を書いている今)の私は忘れてしまっている。
なぜ忘れてしまったのかの1つに、先生からの印象的な言葉があったからじゃないかと思った。

その先生からの一言とは
「何のために瞑想をしているか、よね」というもの。

どういう流れでその言葉が出てきたのかは不明だが
ものすごく刺さった。

ここまでのゴエンカ氏の講話を聞いていて
繰り返し違和感を覚える部分があった。

もちろんこのプログラムは宗教とは切り離されているのだが、講話はブッタの話が中心となる。
正確にいえば、ブッタが広めようとした「ダンマ」について。

「ダンマ」と漢字で訳すと「法」、真理というような意味合いのもの。
(と書いたけど、これも一言で理解するのはとても難しい)

で、ダンマを体験を通して知ることで、心の奥底にある汚濁が消え、生きづらさから解放され、悟りをひらくに至るという話が繰り返されている。

講話の中で出てきた具体的な例として、たとえば、
「人間は歳をとるのが自然の摂理。これは逃れることのできない真理である」
わかる。そりゃそうだ。

なのに「白髪染めを買いに走る人がいます」と。
「これは、いつまでも若くありたいと執着しているということです」
「愚かなことです」
・・・。

たしかに、若けりゃいいってもんじゃない。
歳を重ねる魅力もあるし、実際に若い時より今の方が私も楽しい。

ブラックコメディの映画「永遠に美しく」で、50代となり容姿の衰えに悩むマデリーンを演じた大女優のメリル・ストリープも、こう語っている。

「歳を取ることを喜んで受け入れなきゃ。人生は無駄にできないの、たくさんの人を失うと、毎日が素敵な贈り物だと気付くわ」

『永遠に美しく…』(とわにうつくしく、原題: Death Becomes Her)は、1992年のアメリカ映画。ロバート・ゼメキス監督。不老不死の秘薬を飲んだ女性達の騒動を通して、「いつまでも若く美しくありたい」という願望を、ブラックユーモアを交えて描くブラック・コメディ映画。出演はメリル・ストリープ、ブルース・ウィリス、ゴールディ・ホーン他。

でもさぁ!
まだもう少しの間は、白髪染めくらいは許して欲しい。
若さに執着していると言われれば、そうかもしれないけどさ・・・。

悟ったら白髪も気にせず、なんなら化粧もせず、すっぴんで街に飛び出すだろうけど、そこを目指したいとは思えない私がいる。

ゴエンカ氏の講話の内容は、途中まではそうだなと思う。
私の心に汚濁はめっちゃありそうだし、消せるものなら消したい。
でも、白髪染めを買うようなレベルのことなら、正直なところ別にいいんじゃないか、と思ってしまう。
そのレベルなら、そこまで激しい生きづらさは感じない。
さじ加減、手加減はしちゃダメなのかな。

女ごころの未練でしょうか・・・。

つまり私はこう思っている。
まだ悟りはひらかなくてもいいかな、と。
というか、まだひらきたくない、と。

この10日コースが終われば、推しのライブもある。
わーわーきゃーきゃーぴょんぴょん騒ぎたい。
恋心も忘れたくないし、ちょっとばかりの切なさに枕を濡らす夜があってもまぁそれも恋愛の醍醐味というものではあるまいか?

で、この日、先生から言われたのが
「なんのために瞑想をしているか」だったわけです。

それな。
思わず先生に
「ですよねー」って言っちゃった。

私はなんのために瞑想をしているんだろう?

悟りをひらきたいよね!というゴエンカ氏と、
ひらかないでいいです・・・という私。

ここにきて、方向性の違いが如実に現れてしまっている。
バンドなら即解散だ。
ここに来る前には、解脱しちゃおうなんて、軽口たたいてたけど。

なんのために瞑想するのかについてかは、私は回答できず。
目的がない状態で、何かを頑張るのって大変。

だから私は、5日目になっても帰りたくて仕方ないのかもしれない。

居残っているのは、もう意地。
あとは自分がどうなるのか見届けたいという、引き続き圧倒的な欲。

6day 夢とスマホと瞑想と

来ましたよ。
逃げ出したくなるという6日目・・・帰りたい・・・。
最初からずっとだけど・・・。

大手術と夢のはなし

2日目から耳栓の効果もあってか、よく眠れている。
夜中や明け方に一度くらい目を覚ますことはあっても、そこから眠れないという日もまだない。
自室で瞑想をしていて眠気を感じることはあっても、瞑想ホールでうとうとしてしまうことがないのも、しっかり眠れているからかもしれない。

3日目の夜に夢を見た。
死んだおばあちゃんが出てきた。
といっても、夢の中のおばあちゃんは生きている時と変わらず動いていて、私は死んでしまったとは感じておらず、いわゆる夢枕に立つみたいなやつではなかった。

そして昨日、4日目の夜は息子の夢を見た。
息子はすでに成人しているけれど、夢の中の息子は幼かった。
たぶん5歳前後だと思う。
ストーリーは覚えていないものの、息子が危険な目に合ったようなひどく怖い夢だったことだけが記憶に残っている。
ハッと目が覚めて、心臓がドキドキしていることに気がつき、とっさに鼻呼吸を観察して気持ちを鎮めた笑

そして今日、5日目の夜もやはり幼い頃の息子の夢だった。
やはりストーリーは覚えていないが、とても悲しい夢だった。

4日目からヴィパッサナー瞑想に入る際に、ここから心の大手術が始まると言われ身構えていたものの特に何も変化を感じられず、肩透かしを食らった気がしていたけど、これらの夢は大手術によって引き起こされているように思えた。

結婚生活で一番大変だった時期が、ちょうど息子が小さいころだった。
彼のことが世界で一番大切で、一番守らなければいけないと感じていた日々。

私にとってあの頃の苦しさは、すでに人生の糧として昇華されたと思っていたけれど、心の奥底の無意識の領域で、ドロリとした汚濁になっていたのかもしれない。

精神分析学者ののフロイトも
夢は睡眠中に意識に混入してくる無意識の表象の一部」と言っている。

ヴィパッサナーの心の大手術って、こういうことなのかもしれない。
何かが浄化されたのかも・・・。

ちなみに。
怖い夢を見た夜は、うなされたような気がうっすらしている。
(近くのベッドで寝ていた皆さん、すみませんでした!)

夢をみると言う体験は、私以外の参加者も同じだったようだ。
実際に、寝言やうなされたりしてる声も聞こえてきたから。

(→後日談として、参会者さんの一人から、ピッチャーマウンドに上がって、なぜかボールではなくカチカチに固まった猫をぶんなげたという夢を見たという話を聞いた笑 でもその奇妙な夢を見たあとは、なんだかめちゃくちゃスッキリしたんだって。やっぱり心の大手術すごいかも)

スマホなき、お洗濯

ほぼ毎日、量の差はあれど洗濯をしていた。
脱水機は2台あるが、洗濯はバケツを使っての手洗い。
最初はめんどうだなと思っていたのが、徐々にひまつぶしとして優秀な作業に思えてくる。

ちよっと楽しいのだ。

朝から快晴だったりすると、みんなで(といっても各自だけど)洗濯物を干す作業が気持ちいい。
風がびゅーっと強くなって、みんなで(といっても各自だけど)物干しのハンガーを固定させに行くのもなんとなく楽しい。

4日目あたりの朝は曇り空で、洗濯物を干す場所を軒下にするか、野原の真ん中にするか迷った。

空を見上げて、雲の流れを眺めて、うーん、と悩む。

ハッ。

こうして洗濯物を外に干すかどうかで、空を見上げて決めたことってあっただろうか。
迷ったらスマホ。
今日の降水確率は?
なんなら洗濯物指数とか見ちゃうのが当たり前。
天気予報があれば、自分の頭や勘を働かせる必要すらない。
なんて便利で、なんて依存的なんだろう。

おそるおそる、野原の物干し台に洗濯物を干してみた。
同じ決断をした参加者も数名。

瞑想ホールにて、昼の瞑想タイムがもうそろそろ終わりそうなとき、
雨がザザーっと降る音に気が付いた。

やっちまいました。

トイレ休憩タイムと同時に、数名で洗濯物に駆け寄る。
みんなで(といっても各自だけど)ハンガーを軒下へと移動させる。

スマホがあれば、回避できたかもしれない雨だけど、
でもなんだかちょっと楽しかった。
こういうアクシデントもいいよね。

スマホがあれば、これも思い出だなーなんて、濡れた洗濯物にカメラを向けていたかも。

スマホがある便利さをあらためて感じながらも、そんなものなかった時代に思いを馳せてみたりする。

『スマホを落としただけなのに』は、志駕晃による日本の推理小説シリーズ。2018年11月2日に、中田秀夫監督、北川景子主演で実写映画化。

この映画の中で、スマホを落として公衆電話から上司に連絡を取ろうとしたものの電話番号がわからないというシーンがあるけれど、私もこのままスマホやSNSがなくなったら、二度と会えないかもしれない人がわりといる。

スマホがないという状況については、慣れてきたと言える6日目。スマホとの付き合い方を、改めて考え直そうと思った。

7day 超個人的な裏テーマ

しつこいけど、帰りたい・・・。

ここにきて、ひそかな恋の物語

現時点で、人生に生きづらさを感じてはいない。
大きなトラウマもないし、あれこれあったことも今は気にしてないし、なんなら感謝までできる。
瞑想合宿も、ヴィパッサナーを学びたいという気持ちと大きな好奇心から参加した。

と言っておりましたが。

実は、ひとつだけ喉にひっかかった魚の小骨のような後悔がある。

ある人と、ほぼ一方的なかたちでお別れをした。
理由は、さよならされるのが嫌だったから。

どんどん遠くなる関係が、毎日毎日こわくてこわくてたまらなかった。
このままでは自然消滅してしまうのではないか。
そして、毎日毎日そんな不安にかられている自分が、嫌で嫌でたまらなかった。

で、ある日、半ば衝動的に一方的な連絡を送りつけた・・・。

もちろん、結果はろくなことにならない。
随分長い間、苦しさを抱える結果となった。

ゴエンカ氏がいうところの、まさに心の汚濁。
手放せそうで、手放せない後悔。

3日目の夜あたり、この件について以下のように考えていた。
この瞑想合宿が終わる頃には、
「あれもまたよい思い出だった。ゴエンカ氏に渇望するな、すべては無常だから執着するなと言われても、手放さなくていいものもあることに気がついた。それが私の答えだ」とブログに書くだろうな、と。

でも7日目の今、そういう答えにはたどり着かないような気がしている。
なんとなくだけど。
じゃあどうなるのか、まだわかんない。
頭がぼんやりする。
この件について、なぜか考えが進まないのだ。

でもなんとなく、それでいい気がしている。
ここでの時間は亀のスピードに思えるけど、この件に関しては光のスピードで時間が流れて過去のことになっていっているのかもしれない。

映画「食べて、祈って、恋をして」では、恋人とうまくいかなくなった主人公は、イタリア、インド、バリへと自分探しの旅に出る。

円安が進む今、この世界を飛び回るルートはなかなかしんどい。
もしあなたが辛いお別れをしたときは、ヴィパッサナー瞑想合宿、ありだと思います。

少なくとも10日間は、通知のないスマホを睨みつけることも、彼のSNSを覗きたい衝動と戦うこともなく過ごせるのだから。

映画と同様、瞑想も、内なる旅も千葉もしくは京都でできますよ。
ちょっと違うのは、新たな恋につながる出会いがない点だけど・・・。

『食べて、祈って、恋をして』(原題: Eat Pray Love)は、2010年公開のアメリカ映画。エリザベス・ギルバートによる2010年8月時点で全世界で累計700万部を売り上げている。回想録『食べて、祈って、恋をして 女が直面するあらゆること探求の書』を原作としたドラマ映画である。

残すはあと3日です、からのサプライズ

相変わらず帰りたい気持ちがなくならない私ですが、
夜の講話でこんな話が!
いつものカウントダウンフレーズ
「7日目が終了しました。残すはあと3日です」
からの〜、

「正確には10日目の朝に終わるので、瞑想に集中できるのはあと2日です」

まじか!

10日目の朝には終わるの?

まだ3日あるという残酷な事実に、絶望的な気持ちになっていただけに、
この「あと2日」というフレーズは幸せなサプライズだった。

うれしい!

でも、その一方で思うのです。
この合宿の厳しさを考えれば、言葉のまま期待するとがっかりすることになるのではないか、と。
疑い深くなっている私・・・。
(→そしてその予感は、そこそこ的中するのでした)

8day 死の瞬間まで観察できるか

実質残り2日と言われたのに、帰りたい・・・。

明晰夢を見た

また夢の話ですが。
夜の講話でこんな話が出た。
ヴィパッサナーの達人ともなると、眠っていても意識を保ち、観察することができるというのだ。

そういえば、チベット密教の僧侶が眠りを観察し続けているという話を聞いたことがある。眠る瞬間はもちろんのこと、目覚めていく様子もつぶさに観察するという。
寝落ちなんてもってのほか。
これも修行のひとつなんだとか。

理由は、いつか迎える死をつぶさに観察するためなんだとか。
死ぬ瞬間に、お、これは死ぬな・・・と、冷静に観察する。
これってヴィパッサナー。
眠りすら観察できないのに、死を観察するなんてムリムリ!ということらしい。

でもそれって、ちゃんと眠れているのかね?
なんそんなことしてたら睡眠不足で倒れそうだなと思いながら、講話を聞いていたけれどむしろ逆だという。
むしろ十分休息はとれるらしい。

ゴエンカ氏曰く
「みなさんも眠れないときは、眠ろうと焦ることなく、観察してみてください。睡眠中も意識を働かせてください。翌日も眠くないことがわかるはずです」みたいなことを言っていた。

ほんまかいな。

と思って寝たら、ほんまだった笑

夢の中で、これは夢だなということに気が付いた。
これは、明晰夢というやつだ。
夢をみている自分を、認知することができた。

ってことは、夢ではなんでも私の思い通りにできるんじゃないか?
菅田将暉、召喚しちゃおうか! いや、瞑想センターに似合うのはオダギリジョーかも!

と、興奮したら目が覚めた・・・。

(→次の日も期待して寝たけど、明晰夢をみたのはこの日だけでした・・・)

映画「インセプション」では、夢の中で夢だと気がつくためにコマを回すんだけど、「コマが永遠に回り続ければ夢の中、倒れれば現実」というルールが覆る夢をみるってことはないのだろうか?

『インセプション』(原題: Inception)は、2010年より公開されたアメリカ合衆国・イギリスの映画。クリストファー・ノーラン脚本・監督によるSFアクション映画である。

夢ってほんと不思議。
そしてあらためて夢と無意識とヴィパッサナー瞑想は密接に関わっているのだ
と感じた。

帰りたい帰りたいと言っている私ではあるけれど、一応ヴィパッサナーの恩恵を受けている気がする。

エクソシストの効果

2日目の夜に半ばパニックになった首が勝手に回る現象。
ここまで書いてはいないけど、それ以降も1日に一度くらいは軽く動く。
(2日目が一番派手に動いたけど)

無視しろと言われたので、咳が出たりくしゃみが出たりするのと同等の扱いとすることにしていた。

動いちゃいけないアディッターナ瞑想タイムでも、このエクソシストが起こるのはスタート時なので問題なし。

それはそれとして。
だんだんこの現象が起きる発動条件がわかってきた。
まず瞑想ホールであること。
次に、ゴエンカ氏の詠唱が流れているときであるということ。

自室にゴエンカ氏の詠唱が遠くから聞こえてきたことがあるのだけれど、
そのときは動かなかった。
音が小さいせいかもしれないし、検証するには回数が少なすぎなので、詠唱だけでも動き出すのかについては、帰宅後に確認してみようと思う。
(→自宅ではエクソシスト現象はいまだ発動していません)

そして面白いのは、この極端な首の位置やムリな体勢にも関わらず、それが終わると肩こりや首こりが良くなるということだった。

これは氣功でいうところの、自発動というものと似ているのかも?
気が体のアンバランスな状態を調整するというものがあるらしい。

って、他の思想や手法とあわせて考えるのはご法度。
混ぜるな危険。

9day やっと終わりがみえてきた!

あと少し! あぁ、帰りたい!

なんか変な虫の列

よく晴れたいつものお昼やすみ。
いつものように草むらを散歩していると、カナブンみたいな虫が集まっているのを見つけてギョッとした。
ここ数日、暖かくなったせいか急激に虫の活動が活発になった。
虫が苦手なので嫌だなぁと思っていたのだが、
そのカナブンみたいな虫は、そこまで苦手なタイプではない。
ただ、この日見つけたのは、それが固まって列になっているものだった。

たぶんメスと思われるその個体の後ろに、たぶんオスと思われる個体が、いち、に、さん、し、ご、ろく、と繋がっている。

こんな感じ↓
メスオスオスオスオスオスオス

可愛く言えば、電車ごっこのようだが、たぶん交尾的なやつ?
気持ち悪いな・・・思いながら視界を広げると、
30センチ四方の狭い範囲に、他に4列ほどが動き回っているではありませんか。

ぎゃー!
生き物を殺してはいけない戒律のなかで、うっかりこの範囲に足を踏み入れていたらあっという間に、24killでゲームオーバーだ。

スマホ持ってたら、絶対撮影してる!

でもなんだろう。
気持ち悪いのだけど、見たこともない風景に目が奪われて、めちゃくちゃ見てしまう。
本能の赴くままに、謎の列になってしまう悲しき生命体。

あ。
隣の草むらに、小さなハエがとまっている。
ハエもまた、カナブンみたいな奴らをじっと眺めている。

「何やってんだ、こいつら・・・」とでも思っているのか。

カナブンみたいな虫の列
を、見るハエ。

カナブンみたいな虫の列
を、見るハエ
を、見るわたし。

そんな私をどこかまた別の大いなる存在が、眺めていたりする?
本能の赴くままに生きるもできず、後悔も欲も手放せずジタバタしている悲しき生命体ニンゲン、とか思われてたりして・・・。

この世は幻、仮想現実です。
なんて言う人もいるけれど、この瞑想センターで社会から隔離されていると、仮想現実、さもありなんって気持ちになってくる。

「トゥルーマン・ショー」みたいに、私は真実に気づいてないだけなんじゃないかって。

『トゥルーマン・ショー』(The Truman Show)は、1998年のアメリカ映画。6月1日にロサンゼルスでワールドプレミアを開催し、6月5日に北米で公開された。

かーん。
午後の瞑想がはじまる鐘が鳴り、あわてて我に返る。
もうそんな時間⁉️
この日、虫を眺めていたのが、ここにきて一番集中していたかも・・・。

あなたは、ほどこしで生きていたのだ

また講話についてなのですが。
この夜は、頭をぶん殴られた気がした。

「これまでの九日間、あなたはすべて他人からの施しで生かされていたのです」

朝のおかゆも、昼のお味噌汁も、ティータイムの果物も、布団も、シャワーも、雨風をしのげる家屋もすべて、見知らぬ人からの施しだったのだ、と。

めちゃくちゃハッとした。
たぶんここにきてトップ3に入るくらい目からウロコが落ちた瞬間だった。

この施設の運営はすべて寄付でまかなわれている。
そのことは最初からわかっていた。
最後に自分も寄付するつもりでいた。
自分が得たもの、感謝の度合いで寄付の金額を決めようと思っていた。

食事も寝床も、コースの指導料も、すべては後払い。
だから、自分は安心して食べてもいいし、寝てもいいと思っていた。

なんて思い上がりだったんだろう。

後払いなんてシステムを、当たり前のように勝手に導入していた自分。
おのれの満足度で金額を決めるだって?

ちがうちがう。

あとで払うなんてことなんて、出来ないんだ。

見知らぬ誰かが寄付してくれたすべて。
わたしは無条件に、それらを受け取らせてもらっていたのだ。

ヴィパッサナー瞑想を経験した先人による
「他の人たちにもこの機会が与えられるように」という思いによって。

自分に、資本主義経済のしくみが骨の髄まで染み込んでいたことに気がつく。
同時にこの瞑想センターの尊さを、痛感した。

体験することで、公式サイトに書かれていた質問の本当の意味を理解した気がする。

コースの参加費はいくらでしょうか?
指導、宿泊、食費は、すべて無償で提供されます。これは、ヴィパッサナー・コースに参加するそれぞれの生徒に、以前コースに参加した生徒から贈られるものです。世界各国で行われているヴィパッサナー・コースは、寄付のみで運営されています。コースを修了し、瞑想の体験から恩恵を感じたら、自分の気持ちと経済状況に応じて、次のコースを受ける生徒のために寄付をされることを歓迎します。

日本ヴィパッサナー協会

インド人もアメリカ人も反対したシステム

世界各国にある瞑想センターもまた、寄付のみで運営されている。
先生も食事づくりや清掃作業をしてくれるスタッフさんもボランティア。
設立の段階から、すべてが寄付。

しかも特定の団体からの、支援も受けていない。

ゴエンカ氏が建設時にこのやり方を伝えると、インドでもアメリカでも反対されたらしい。
「それでは運営できない。破産してしまう」
「貧しい人が食事と宿だけ求めてきてしまう」
「せめて食費だけでも取るべきではないか」 などなど。

多数の反対の声があがったらしい。
(偏見なのだけど、インドでも反対されたと聞いてちょっと驚いた)
でも、ゴエンカ氏は完全寄付システムにこだわった。

結果は、それらの心配はすべて杞憂となる。
今、世界中に瞑想センターが存在している。
日本にも、ここ千葉と京都の2箇所。
京都は改築工事中だとか。

寄付文化が希薄な日本で、
「他の人たちにもヴィパッサナー瞑想に触れる機会が与えられるように」
という願いだけで、宗教施設ではなくこれらが続いているってすごいなと思う。

もちろんそれを可能にしている世界観として、仏教的なベースがあり、輪廻転成やいわゆる徳を積むというような感覚があることは無視できないけれど。

でも、最初から今日までずっと帰りたいと言っている私ですら、絶対に寄付しようと思っているのは事実。
それは前にも書いたが、自分がしてもらったことのお礼ではなく(お礼したいけどお礼なんてできないから)、この先に続く人への贈り物にしたいという気持ちが芽生えている。

ヴィパッサナー瞑想にも、この体験にも、それだけの価値があると思えた。

10day ラストデー?

終わりそうで、終わりません

「9日で終わりです」みたいな話だったけど、
10日目も瞑想についてはいつものスケジュール通りだった・・・。
終わらんやないかーい!
でも、この疑いはすでに織り込み済みなのでショックは小さい。

とはいえ、10日目であることに変わりはない。
ここまで頑張るとそれはそれで、もっとヴィパッサナーの恩恵を享受したいという欲が出てしまい、四時半から自室ではなく瞑想ホールで2時間がっつり瞑想をすることにした。
朝のゴエンカ氏の詠唱が長くて30分もあることを、10日目の私は知っているので最初の頃「いつ終わるの?」とそわそわすることもなく、むしろしっかり堪能する。

最後の朝の瞑想だと思うと、それはそれで感慨深い。
が、もしかしたら11日目も朝の瞑想あるんじゃないか?
いや、これはあるな・・・。
(→そして、実際に翌日ありました笑)

おしゃべりなしでもいい?

昨日の夜の説明で、今日10日目の朝のグループ瞑想後に「聖なる沈黙」は解かれると聞かされた。
つまり、おしゃべり解禁!

待ちに待ったコミュニケーションと思いきや、いざそう言われると不思議なもので気が進まない。

この10日間でひそかに嫌われていたらどうしよう。
あの人ちょっと怖そうに見えるし。
なんて、ネガティヴな思考がちらつく。

むしろもうこのまま話もしないで解散してもいいのではないか、という気持ちにすらなっていた。
というか、
もうしゃべっていいなら、帰りたいよ!

最後の最後まで帰りたいまま終わってしまったな・・・。

協会の公式サイトの質問コーナーにこんな内容があった。

10日目に話す事が許可された後はどうでしょうか?その時点で帰っても良いのでしょうか?

10日目は通常の生活に戻るための大切な移行の日です。その日に帰る事は許されていません。

日本ヴィパッサナー協会

質問した人!
わかるよわかる! もう帰りたいよねぇ!

でも、回答にあるように「通常の生活に戻るための大切な移行の日」という理屈もよくわかる気がする。一気に下界に降りたら、その落差に頭が爆発しそうだ。

「聖なる沈黙」の終了

そして。その時は訪れた。
以降も瞑想ホール内やその周辺、宿泊棟でのおしゃべり、男女エリアの行き来は禁止。屋外と食堂のみがおしゃべりOK

朝の瞑想終了後、先生から聖なる沈黙の終了が告げられる。

瞑想センターを出る。
もう周りに話しかけてもいいのだ。
でも、なにから話す?
だれから話す?

そわそわした空気のなか、
「もう話していいんですよね?」
みたいな一言を近くの人にかけてみた。

この後は、堰を切ったように
たくさんの人とめちゃくちゃ話をした。

嫌われていることも特になさそうで、
怖そうに見えた人も、話してみたら全然怖くない。
ものすごく綺麗な姿勢で瞑想をしていて、すでに達人じゃないかと思えた人も
実はつらかったって笑ってた。

人間関係の悩みって、その多くが勝手に自分の心で作り出しているのだろうなと思った瞬間だった。

コミュニケーションって大切。
そしてめちゃくちゃ楽しい!!!
10日間がんばってよかった。
帰らなくてよかった。
やっとそう思えた。
そういえば、笑ったのも10日ぶりだな。

この後の瞑想時間はもうすっとばして、おしゃべりしていたかった笑

11day いざ下界へ

帰りたい! 帰ります!

アニッチャアニッチャ。さよならについて。

この日の朝の瞑想が、本当に最後の瞑想。
けれど個人的には最後だから特別ということもなく、集中できたりできなかったり。
先生もいつも通り一緒に瞑想して、終わるといつも通りさくっと瞑想ホールを出ていってしまった。

「10日間頑張りましたね!」とか
「またお会いする日まで」とか、
そういうのはまったくない。
あっけないサヨナラ。

アニッチャ、だなぁ・・・。

ゴエンカ氏が講話で、毎日のように言っていた言葉。
アニッチャanityaとは、仏教用語で「無常」を意味する。

すべては移り変わり、変わらないものはひとつもない。

講話のなかでは、アニッチャについて量子力学の話も出てきた。
私たちは素粒子でできていて、それが絶えず明滅を繰り返しているに過ぎないのだと。
実体なんてあってないようなものだということだろう。

この10日間もまとめて語りたくなるけど、その瞬間瞬間すべては終わり、そして始まっているだけのこと。

だとしたら、今日の日のさよならもまた特別なものではない、ということかもしれない。

すべての出会いと別れも、アニッチャなんだからなんてことはない。
そもそも出会いも別れもなくて、人は勝手に事実に意味づけをしているに過ぎないのだろう。
私の裏テーマだったさよならもしかり。
悲しいお別れの処方箋として、ヴィパッサナー瞑想はやはりありだと思う。

量子力学とヴィパッサナー

量子力学といえば講話で、大量破壊兵器の発明にたずさわった科学者が瞑想センターに来たエピソードが語られる。この話、なかなかのインパクトがあり(エクソシスト系)、初参加ではない古い生徒さんたちの間で
「科学者の話が出た時、あの話きたーと思ったよね」と笑いあっていたので、みんな覚えているエピソードなのだなと思われる。

このレベルのいわゆる業(カルマ)を背負った人にとっては、ヴィパッサナー瞑想は、さらなる救いの意味を帯びてくるのかもしれない。

映画「オッペンハイマー」のなかで、「世界はそれまでと変わってしまった。我は死神なり、世界の破壊者なり」という言葉が出てくる。

原爆を開発したオッペンハイマーは、古代インドの聖典「バカヴァッド・ギーター」のヴィシュヌ神の化身であるクリシュナと自身を重ねて、そう語ったと言われているのだけれど、そんな彼ならヴィパッサナー瞑想を知っていたのではなかろうか。
晩年ヴィパッサナーに救いを求めたり・・・なんてことも想像したりした。

『オッペンハイマー』(英語: Oppenheimer)は、2023年より公開されているアメリカ合衆国の映画。世界初の原子爆弾を開発した「原爆の父」として知られる理論物理学者ロバート・オッペンハイマーの生涯を描いた伝記映画である。

つわものどもが夢の跡

瞑想を終えて、よし、朝ごはん!と、またいつものように食堂に向かったが、食堂は閉まっていた。
またやってしまった。
部屋の片付けをしてからだということに気づく。

あわてて荷物をスーツケースに詰め込んで(帰りは荷物膨らむよねぇ)部屋の簡易清掃を開始。
その時点ですでにすべてを終えて、荷物を運び出す人の多さに驚く。

みんなめちゃくちゃ仕事が早い!

話をして感じたことは、参加者の年齢は、下は18歳から上はたぶん50代くらいまでいたけれど、共通点としてはとにかくフットワークが軽い。
まぁ腰の重い人は、こんなところにはこないだろうけど笑
結果、旅上手な人が多く集まることになる。
(→男性チームはさらに旅人属性が多そうだった)

荷物の片付けもだけれど、合宿中の洗濯やシャワー、食器の片付けにも、旅慣れた人のそれらがにじみ出ていた。

「この吸水タオル(ぺらぺらの布)、髪も乾かせて洗濯してもすぐ乾くよ」とか、便利グッズを持っている人も多かった印象。

思わず
「いいね! 次回はそういうの持ってきたい」と言ったら
「また来るの? 笑」
と他の参加者さんに言われて、そんな言葉を口にした自分に驚く。

「いやもう、一回で十分満足した! 笑」
と答えると、
「私も前回帰るときはそう思ったんだよねぇ」と。

私ももしかして、また参加しちゃうかもしれないの?笑

待ちに待ってはいたけれど・・・

朝ごはんを食べ終わったら、預けていたグッズ、スマホと貴重品を受け取る。
待ちに待ったスマホのはずだったのに、受け取る直前はなんとなく受け取りたくない気持ちになっているという摩訶不思議な現象が
私だけでなく、周りの人も同じようなことを言っていた。
そして、10日ぶりのスマホ。
重い!まぶしい!
やだやだ。スマホってこんなに重かったっけ、眩しかったっけ、ってなる。

とはいえ、手にした瞬間、連絡しそこなった仕事先にあわててメッセージを送ってしまうのもまたリアル。

ここで寄付できる受付が設置され、私も寄付をしてきた。
参加前に想定していた額より少し多めに支払った。
カードも使える。
といっても、順番も決まっていないし、寄付を強制される感じはもちろんのこと空気を読まなきゃいけない感じも見事なほどゼロだった。

帰りは瞑想センターの方に茂原駅までバスで送ってもらえるのだが、次の予定があったので同じく急ぎの人たちとタクシーに相乗りするスタイルで駅まで向かうことにした。タクシーは昨晩、センターの電話をお借りして予約済み。
(→タクシー代は駅まで4人で割り勘にして、1100円くらいでした

タクシーまでの時間は、瞑想センターのお掃除。
お世話になった感謝と、これから先の人たちのためにみんなしっかり働く。
私は2日目に呪われていると思った瞑想ホールを掃除することにした笑

世界ってこんな感じだっけ?

駅まで向かうタクシーの中でも、みんなと引き続き楽しくおしゃべり。
数回参加のめっちゃかっこいい猛者も、スマホでソシャゲ画面を開きながら
「目が回るわー」って言っているのを見て、ここでやっと同じ下界からきた人だったのだなと思った笑

駅について、東京までの電車の出発時間を確認しようという話に。
「ちょっと待っててー。時刻表見てくるー」と言った私に、
みんなが突っ込む。
「いやいや、スマホあるでしょ!」

完全に忘れてました笑

たかが10日、されど10日。

駅併設のコンビニに入ろうと思った瞬間、その明るさと商品群の文字などの情報量が多過ぎて、クラクラしてしまう。

なんか、やだ!
なんか、無理!

駅も町も、広告であふれていて
私なんてそもそもコピーライターという広告屋なんですけど・・・。

情報に対して、目がすべる。

この表現がぴったりくる。

文字が読めないというか、目が逃げちゃうというか、とにかく頭に入ってこない。
知っているはずの知らない星に降り立ったような不思議な感覚。
他のみんなも似たような感想をもらしていた。

違和感がありすぎて大丈夫なのか・・・と思ったりもしたけど、この経験もまた貴重だと感じた。

締めはココで

講話の中で出てくるワードとして、アニッチャと並ぶのがサンカーラ。
サンカーラとは、一般的に「条件づけられたものごと」「因縁によって起こる現象」のこと。

瞑想中に頭がアホになっていて、
1カラ、2カラ、サンカーラ。
などと思ったりしていたせいか、無性にココイチに行きたくなる。
3カラは刺激が強そうなので、1カラでいただくベジタリアンカレー。

思い返せば、瞑想中はほんとうにしょうもないことばかり考えていた。
でも私にとって瞑想中の1番のさまたげは、3日目にはこの体験をブログを書きたいと思ってしまったことだった。

メモが取れないので、何度も繰り返し頭の中でエピソードをこねこねしてしまう。
これはある種、職業病かもしれない。
リレーコラムを仲間と書いていたことがあったのだけど、そのチームのみんなも同じような感じだった。
急な入院や、離婚など、人生にはネガティブなイベントが起こるけど、みんなその瞬間「ネタが見つかった!」って思ってしまうと言っていた。わかる。

(→そしてこのコラムにたどり着くことになる。この文字数のアホ体験記、ここまで読んでくれている人はいるのだろうか・・・)

ゴエンカ氏が口を酸っぱくして言っていた「講話は知的好奇心を満たすエンタメではない」と。
ヴィパッサナー瞑想は修行であるという言葉さえも、私はコンテンツの一部として消費しようとしていた。

誤解を恐れずにいうならば、私にとっては映画館に行くことも、ヴィパッサナー瞑想センターに行くことも同じだったのだと思う。

ゴエンカ氏には怒られちゃいそうだなぁ・・・。

でも、これから逃れることができないであろう仏教でいうところの四苦、生(しょう)・老・病・死までも、同様に思えたら、それは私の望むところのように思える。
人生におけるすべての経験は神様が作ったコンテンツのひとつに過ぎなくて、私はそれを宇宙のどこからか体験するために地球に生まれてきたのであれば・・・。

解脱もまた、難易度高めのゴールのひとつなら目指してみるのもありかもしれないけれど。

あとがき

合宿から帰宅した翌日には、下界の暮らしにもすっかり慣れてしまった。
元に戻るのはあっという間。

最近では相変わらずスマホを握りしめているし、ゴエンカ氏は毎日1時間以上瞑想しましょうと言っていたけど全然できてないし。短い時間の瞑想もさぼりがち・・・。

じゃあ意味がなかったのかといえば、絶対そんなことはない。
確かな根拠はないけれど、大きな変化があったわけでもないけど、でもなぜか「絶対」って言いたくなる。

今の心をじっくり観察してみれば、裏テーマを思いだすことも少なくなっていることにも気づく。そして誰が読んでくれるかもわからないのに、こんな長文を書いてしまった自分に愕然としながらも、私は誰かと感動や驚きを分かち合うことを心の底から望んでいるのかもしれない、ということにも気づいてしまった。だからライターになったのかもしれない。

とにもかくにも、静かなる大騒ぎの10日間だった。
最初から最後まで帰りたくてたまらなかったけど、行ってよかった。
2日目の夜に脱出しなかった私を褒めてやりたいと思う笑
そしてなにより、この体験を提供してくれたゴエンカ氏、スタッフのみなさん、先達のみなさん、ともに座った仲間、名も無き草花、謎の虫にも、あらためて感謝したいと思う。
そして、このながーーーーい記事を、喜んで読んで掲載許可を下さったOMYOGAのかよ先生にも。

また合宿にいくぞ!
とは、当分言えそうにないけど笑

皆さんも、機会と覚悟があればぜひ!

まだちょっとヴィパッサナーの10日間合宿は・・・と思った方には、
OMYOGAの瞑想クラスをオススメします。

これだけで、私は十分に気持ちのいい変化を得ることができました。

直近ではMBSR(マインドフルネスストレス低減法)8weekがあります。
8週間で人生を変える、科学的根拠に基づいたストレス低減プログラム。
ここなら楽しいおしゃべりもできるし、エクソシストも発動しませんので、ご興味のある方はお気軽にお問い合わせください笑